Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

軍内の帝政派士官 『偉大なる道』第2巻③ー4

 新制第十九師は、クルップ製ライフル銃、機関銃、野砲を装備していた。満州人の総督は、これで起こりくる革命運動から朝廷を守ろうと考えていた。北京の朝廷は、華北人の高級士官を送ってきたが、彼らは帝制派であり、重要な地位につき、危険分子の疑いがあるものに対して高級スパイとしてはたらいていた。若い士官の多くは、同時に軍官学校の教官になっていたが、日本で学んできた連中であった。そのあるものは、共和主義の秘密結社、同盟会の会員だろうと疑われていた。

 

 帝政派士官たちは、原則としてすべての青年士官に疑いをかけていたが、総督は2,3のものを信用して機密をゆだねたりしていた。その総督に信任されたもののうち、ひとりは軍官学校長だったが、いまひとりは、通常は蔡鍔(さいがく)の名で知られている蔡松坡で、新軍の第三十七旅団長であり学校の教官でもあった。もうひとりの30代半ばの将校は、まもなく総督に疑われることになる羅偑金(らはいきん)という四川連隊の隊長だった。

 

 朱徳と友人はすぐに、ひとりの若い四川軍の隊長と知り合い、郷土愛に訴えて世話をたのむと、入学について保証人になることを承知してくれた。しかし、その若い隊長は、君たちは四川人だから不許可になるかも知れないとあやぶみはした。ふたりは入学試験を受け、どちらも合格したが、チン・クンは許可され、朱徳は許可されなかった。

 

 自分だけが不許可とはがーんとやられた感じで、朱徳は、この扱いはいったいどういうわけだろうと友人にたずねてみた。少々うろたえながらチンは説明したが、彼は、最後になって、不許可を恐れて郷里をいつわり、雲南省のある市の地主の家のものと申告したというのである。

 

 「それはいい教訓になった」と朱将軍はいった。「今後はあまり正直にはやるまいと決心した。とにかくそのときには、私は、ほとんどお金を使いはたしていたので、何か別の新しい手を考えて軍官学校にもぐりこむまで、食いつなぐことを考えなければならなかった。あの時代には、教育を受けたものが兵になることなんて考えられないことだったが、私は四川人連隊に兵として志願した。四川出身の若い隊長は、私の行動を理解して、学校に入る便宜もはかってやる、といった。