Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

雲南軍官学校に合格 『偉大なる道』第2巻③ー5

 「そのときに、私は、あっさりといままでの名を捨てて、「朱徳」という新しい名で申告した。出生地は雲南省のある市としたために、私は雲南省人だと伝えられることになってしまった。私はみじかい期間、一兵卒としてつとめ、基本的訓練を受け、兵としての義務のあらゆる労働もやった。そのあいだに、私は、3人の兵をどうも古い農民秘密結社の哥老会員らしいとにらんで、親しく付き合うようにした。昔の軍隊にはこの結社員が多くて、いつも新しい仲間をもとめていた。だが、彼らは、のちに事件がおこるまでは、私に加入をすすめなかった。

 

 「基本訓練をおえるとまもなく、昇進して中隊の内務係になり、それから2,3週もたつと、中隊長が軍官学校で士官の訓練を受けるようにと推薦してくれた。連隊長羅偑金(らはいきん)がその推薦をみとめたので、私はふたたび、ただし今度は雲南省朱徳として入学試験場にあらわれることになった。それに合格して、5百人の候補生のひとりになり、小遣い銭までふくめて、一切のものが給与されることになった。それも、生涯の大事件のひとつであった」

 

 雲南軍官学校は日本の同様の学校を模倣してつくられていたので、当然、学課と訓練は過酷なものだった。夏休みもなかった。だが、日曜は休息の日になっていて、候補生と教官は自由にすごせた。毎日、学課が6時間、訓練が2時間あった。手きびしい軍事学のほかに、地理、数学、歴史、国際問題なども教えられた。そのうえ、候補生のクラブがあって、みなは夕方にはそこに集まって、ありとあらゆる問題を論じあった。


 「私の友人になった候補生のなかには、のちに歴史をつくる人になったものがいた」と妙な微笑をうかべながら、朱将軍はいった。「愛国者として一身をなげうったものもあれば、腐敗した官吏や裏切者の軍閥になってのちの歴史をつくったものもいた。私は、大湾の旧友ウ・シャオ・ペイとのつきあいも再開したが、彼は今では学校の歴史の教官になっていた。私は、いままでになかったほど勉強して、学校の課業と生活に没頭した。ついにおれは、中国を隷属から救い出す道を進んでいるのだと自覚し、熱意に燃えながら、中国の青年は山をも動かし、河の流れも変えることができると感じた」