Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

蔡鍔 『偉大なる道』第2巻③ー6

 教官のひとりである蔡鍔(さいがく)准将は、省総督の信頼を受けた青年将校だったが、もしこの人がいなかったならば、中国の歴史の流れはかなり違ったものになっていたであろう。蔡鍔は、その当時まだ27歳で、朱徳よりわずか4つ年上でしかなかったが、夢でしか望めないようなことを身につけていた人であった。

 

 蔡は湖南の出身で、貧しい読書人の息子だったが、年少のころに、有名な学者であり、1898年の改革運動の指導者でもあった梁啓超の弟子になった。当時のもっともかがやかしい論客梁啓超は、湖南の長沙に最初の近代的学校のひとつを設立していて、蔡はそこで学び、すぐれた才能を評価されるようになった。蔡は、それから日本にわたって、軍事学をまなび、中国に帰ってきて雲南省の新軍建設を助けていた。

 

 朱将軍の描写によると、蔡鍔は、「典型的な知識階級の体質で、身体が弱く、色が白く」ほっそりした顔で、両眼のあいだはひろく、顎はやや女性的だったが、口もとには不屈の頑固さをたたえていた。蔡の態度は控え目でいんぎんだったが、同時に、自己と候補生のすべてに対して厳格だった。時がくれば、やがて立証されるだろう――この細く弱々しい男が、当代でもっともかがやかしく活動的で、生まれながらに組織と行政の手腕をもち、もっとも悪がしこく意地の悪い官僚をたくみにだませる腕をもつ指導者だったということが。

 

 蔡鍔の旅団の司令部は軍官学校構内にあり、彼は毎晩遅くまで仕事をし、朱徳は、ときおり自分の学習のことで相談に行ったりした。蔡の夫人は教育を受けた人ということだったが、候補生たちは彼女を見たことはなかった。蔡の事務室の壁には日本語と中国語の本がぎっしり並んでいたが、朱徳は、どれでも好きなものを持ち出して読むことを許された。ジョージ・ワシントン伝という章がある中国語の本を見つけたのも、ここだったが、彼はそれをくり返し何度も読んだ。モンテスキューの『法の精神』も読んだが、それは中国語で最初に翻訳された外国書籍のひとつであり、中国の改革主義者たちに大きな影響をあたえた本だった。また彼は、才人梁啓超や康有為が、近代イタリアの改革、ピーター大帝のロシアや明治天皇について書いた本まで読んだ。


 蔡鍔のところには、そのほか新聞もあった。彼の故郷の湖南からきたものもあったし、ときには、共和派が秘密裏に香港や東京で発行したものもあった。それらは、あらゆる傾向の帝政派を猛烈に攻撃し、清朝を武力でもってくつがえすべしと叫んでいた。蔡は、彼の事務室で朱がそういう新聞を読むことは許したが、自分の意見はすこしも吐かなかった。それどころか、蔡は王朝にさからうような言葉は一言も口にしなかった。ほかの多くの教官とちがって、彼は、どの講義の中でも革命思想を吹きこんだりすることもなかった。来る日も来る日も、彼は、昼間は、奴隷労役とでもいいたいほどはげしく、学生といっしょに勉励し、夜になるとひとりになって、静かで、ひかえ目な隠者のような生活をした。朱徳は彼にあこがれ、すばらしい才知と仕事の才能ぶりを尊敬した。彼にとっては、蔡は、なりたいけれど、将来も絶対なることができないと思われるすべてを顕現していた。蔡が身につけているものはすべて、計画的なはげしい研究によるものであり、一方頭脳は、天才的な稲妻のようなひらめきをもっているらしかった。この農民と彼の知的教師とのへだたりは大きかったが、言葉で表現できないような共感と友情が、ふたりのあいだに生まれ、年とともに熟していった。