Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

哥老会と同盟会 『偉大なる道』第2巻③ー8

 「そのころ、わが民族はこのうえない悲惨におちいっていた。多くの洪水、かんばつ、飢饉があったが、とりわけ最大の災害は王朝だった。絶体絶命からのもがきが、目に見えてきだした。あちこちで、哥老会にひきいられた飢えた農民たちが、地主、税吏、政治機関などを襲い、食糧をうばった。だが、その反乱は政府の力で容赦なくたたきつぶされ、指導者たちの首は、町や村の入口に高く立てられた柱に釘付けにされた。一方、同盟会はばらばらの革命蜂起をやっていた。

 

 「闘争の二つの流れは、決して交わらなかった。農民は孤立して死物狂いで闘争を起こし、同盟会もまた同じことだった。同盟会員は主として知識階級であり、ひとにぎりの商人その他の中産階級が交じっていたが、階級的偏見ゆえに農民と手をつなぐことをしなかった。結果は、どれもこれも押しつぶされるということになった。特に嘆かわしかったことは、あちこちの省の新軍隊が王朝の手先となって戦ったことだ。

  

 「その当時までは、新軍の兵士は近代的な訓練と武器はあたえられていたが、それまでの観念を変えることはまったくされていなかった。彼らを人間らしくあつかおうという意識は育たず、昔ながらに、動物に向けるような侮蔑の感情で、なぐられ、どなられていた。革命的な知識階級ですら、一般兵士は動物扱いでちょうどいいごろつきだという観念から抜けていなかった」

 

 朱徳は、雲南軍官学校で、一般兵士をあたたかく取り扱うという問題提起をした最初の人だった。何人かの候補生の支持を得て、彼は、兵士の体刑廃止の運動のかじをとった。青年士官のあるものは賛同したが、実際は何もすることができなかった。というのは、軍の規則は、まさにそうした「破壊」行為を防ぐために北京からきている高級士官によってつくられるからだった。ようやく1911年の革命後に、孫逸仙博士によって、兵士の体刑が廃止された。しかし、蒋介石は、1927年に南京で独裁政権をきずくと、この封建的旧習を復活させたと朱徳は言明した。

 

 「蒋介石の士官は、いまでも、兵隊をどなり、なぐり、気が向けば殺しもする」と朱将軍は、彼が近代での最大の悪と呼ぶこのことについて語りながら言明した。

 

 それから朱将軍は本題にもどった。1911年革命まで、中産階級上流階級はいうまでもなく、革命指導者たちですら、一般庶民、まして兵隊のための民権を考えようとしたものは無きにひとしかった。同盟会員の大部分も、自分は将来は情け深い為政者になって、人民には彼らのためになるようなものを与えてやろうと考えていたのだ。彼らにとっては、兵隊とは進歩した若い士官に掌握されている消耗品でしかなかった。「われわれには革命の指導原理がなかったので、血みどろの経験で学ぶしかなかった」