Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

鉄路借款への抗議活動 『偉大なる道』第2巻③ー13

 朱徳は、四川人連隊の兵士たちとこの憎悪の的の借款について長時間話し合った。清朝は、おのれの死亡書に署名をしたのだ、と彼はいった。1911年の7月になると、四川省は反乱にわき立っていた。商人、産業資本家、学生、知識階級などが、成都の総督の役所の前に押し寄せて、借款への抗議をしたとき、総督は兵隊にかかってゆかせて、多くを殺傷した。哥老会がひきいる農民たちも、そのころ抗議のために成都に行進してきたが、市内に入るには武器を門外に積みあげるように告げられた。彼らは武器を積みあげてから入った……そして殺りくされた。それ以降、総督趙爾豊は「人殺し」という名でしか呼ばれなくなった。

 

 この虐殺のあと、四川の経済生活は麻痺したと朱徳はつづけた。人民は税を払うことをこばみ、商人は戸を閉じ、学生と教師は、組織をつくって、全省をたちあがらせようとしていた。「人殺し」は、新式軍隊に頼りきれなくなって、人を見たら発砲するチベット人部隊を招きいれた。その部隊を先にすすませて、役人たちは店から店へと歩いて、商人たちに向かってもっともらしい顔をして、どうして戸を閉じたのかと訊問した。商人たちは、あわただしく戸をあけて商売をはじめ、「保路同志会」の旗を引きおろして、ふたたび黄竜の旗(清朝の旗)をかかげた。「人殺し」は、これで商業も以前どおり行われると布告したが、街路は墓場のように森閑としていた。だれも物を買いに出なかった。

 

 チベットからきた兵隊は、反乱する村々に向かって送られたが、農民たちは待ち伏せして、みな殺しにした。いつの闘争でもそうであるように、農民たちは、昔ながらの敵である税吏、金貨し、封建的地主、官僚にぶつかっていった。

 

 宣教師たちは「拳匪(ボクサー)! 拳匪(ボクサー)!」とわめきはじめ、彼らやその他、中国のいたるところにいた外国人は、政府にむかって、いまのうちに反乱を弾圧するようにと忠告し、同時に一方では、国際的な武力干渉を要望していた。孫逸仙やその他の共和主義者は、外国語新聞では「半きちがいの理論屋、夢想家、官職につけない不平家、ひがみ屋」などと呼ばれた。そのほか数々の蔑称は、孫博士の頭上に、1925年彼が息をひきとるまで、外国人によってつみ重ねられていった。