Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

袁世凱の復活 『偉大なる道』第2巻③ー14

 朱将軍は、外国人が満州人の端方将軍に寄せた希望を思い出した。当時は揚子江岸の武漢地区で鉄道のことをつかさどっていたが、北京政府は、彼に、兵をひきいて四川を征伐するために出発せよと命じた。端方は、四川の東境に到着すると、布告を出して、わが指揮下の軍隊は匪賊掃討を目的とするものだと声明した。だから、四川人は玉座に対して感謝したてまつることが当然であるのに、騒乱を起こし、学校や市場を閉鎖し、徴税をこばむなどとは「謀反人とすこしも変わらないふるまいである」「騒乱を起こしてはならない」と大将軍は命令した。「前どおり商売せよ。税を払え。万人が平和に行動せよ。そうすれば鉄路も敷設され、玉座も満足され、余も満足し、四川省人すべては利益にあずかるだろう」

 

 四川にいたある宣教師は、腹立たしげに書いた。「この気高い満州人にしたがわずに、先導者らはますますあおり立て、いまわしい「河電報」まで送り出している」と。「河電報」というのは、愛国者たちが木片に報道、通信、反乱の指令などを書いて、河に投げこみ、遠くはなれた岸にうちあげられて読まれるというものである。

 

 端方が兵をひきいて、1911年10月10日に重慶についてみると、彼があとにした武昌で、新軍が蜂起し、総督を揚子江上の砲艦に追いこみ、最初の共和主義者の軍政府を樹立したという報せが待ちうけていた。

 

 満州人将軍はそこで思案に暮れてしまった。さらに成都への道をすすむ冒険をあえてするのは気がすすまなかったが、一方、北京の高官たちは、彼を急進撃させようといらいらしていた。


 そのとき、どういう手段であったのかは、朱徳にはわからなかったが、雲南軍官学校の全員は、雲南府の総督の司令部に、つぎつぎに飛びこむ電報の知らせを知ってしまっていた。北京の外国公使たちが、政府が袁世凱の追放を解除して、全国の軍隊の最高指揮者、いや、事実上の政府の首脳にすることを要求したということも知った。1週間後に北京政府はそのとおりにした。袁将軍の「灰狼軍」は、ただちに武漢の反乱軍の本拠に向かって進撃を開始した。そして漢口を攻略して、その大部分を灰燼(かいじん)に帰した。

 

 「洋夷の奴隷」袁世凱、その名をきくだけで朱徳は憎しみに燃えるのだが、その不気味な姿が国政の舞台上に立ちもどってきたのだ。