Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

四川省で共和派軍政府樹立 『偉大なる道』第2巻④ー7

 雲南遠征軍は計画にしたがって行動していたのだが、予期される成都重慶での蜂起の知らせは、いっこうに入ってこなかった。それで、軍は成都に向かって急進撃することになり、自流井の大塩井地帯に入り、さらに進んで、満州人将軍の端方の軍が来つつある、あらゆる交通路を突破しようとした。

 

 その塩井地帯で、革命軍ははじめて、端方と彼の弟が指揮下の軍によって首を切られ、端方の首はアメリカの石油缶につめて重慶の政庁に送られたということをきいた。「人殺し」趙総督は、雲南軍の進撃と端方の斬首の知らせを受けとると、政権を成都委員会にゆずったということもきいた。その委員会は、実業家、産業資本家、地主階級から成り、ただちに双方の側にむかって「すでにわれらの目的を達した以上、武器を棄てられたい」と訴えた。

 

 旧官僚の後を引き継ぐための「時間かせぎの有産階級」のその介入について朱将軍が思い出したとき、顔面は軽蔑そのものになった。雲南軍は、成都進撃をとどめなかったが、ようやく、同盟会と哥老会が計画にしたがって成都重慶で蜂起し、共和派軍政府が樹立されたということを知り、そのときはじめて停止して、南四川をかためることになった。

 

 朱徳中隊長は、その後3ヵ月は自流井という塩井の街を守備し、ときどき匪賊があばれたので、小戦闘を交わした。それまで塩井は匪賊の来襲や他の騒乱のために休業していたが、また新たに開くことになった。しかし、条件は旧のままであった。農民と労働者は、ともに1911年(辛亥)の革命に共鳴し、厳しい労働条件があらたまることを切望していた。しかし、彼らは苦い絶望を味わなければならなかった……と朱将軍はいった。まったく改革されなかった。というのは「1911年革命はまもなく、共和派と外国帝国主義の妥協のために流産してしまった」からである。