Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

辛亥革命の挫折 『偉大なる道』第2巻④ー10

 朱徳と同志たちは、四川省で小さいながら必要な仕事をしていたが、孫博士が袁のためにゆずるといううわさには耳をうたがった。袁とは札付きの帝政派であり、1898年には改革運動を裏切り、1908年には改革派の皇帝を毒殺した悪党ではないか。皇帝への忠誠の誓いすら守ることもしなかった、この男は共和国に対して何をしだすかわからないではないか、――と仲間と語りあった。しかもうわさが事実となり、その事実は共和派の兵たちのあいだに動揺と士気の低下をもたらした。

 

 年をへて過去を振りかえりながら、朱将軍がはっきりわかったことは、1911年革命は錯誤から錯誤への連続であり、一方で袁と外国人は、革命派をこっぴどく叩きつけるかと思えば、承認と財政援助で誘惑し、まるで猫が鼠をなぶるようなものだったということであった。雲南革命軍としては、四川省でぐずぐずしていないで、ただちに華北武漢三鎭に進撃して、袁軍を粉砕すべきだったと朱徳はふりかえった。しかし、共和派はその最悪の敵と妥協してしまった。


 当時の都市の住民たちは「単なる改良主義ではだめで、新しい政治権力を打ちたてなければならない、というところまで進歩してきていた」と朱将軍はいった。しかし、いま彼らは、封建主義と帝国主義の陰謀の泥沼に引きずり込まれる意気地なさをしめした。封建的要素が軍と官界に居すわるのも、どうすることもできなかった。その後何年ものあいだ、雲南は、政治と軍事で進歩をつづけた稀な省のひとつではあったが、それも長続きはしなかった。

 

 「われわれは、1911年革命の挫折については、外国の帝国主義を責めることはできる」と朱将軍は断乎たる自信をもっていった。「だが、もしよろこんで自己と祖国を売りわたす中国人がいなかったならば、外国人はまったく何もすることはできなかっただろう。革命運動についていえば、われわれは民主主義をとりいれることに成功しなかったから、失敗した。それから、われわれの仲間のうちにも、物欲と出世欲はすごく強かったから、最初の革命の自己犠牲の情熱が消えたときには、多くのものの人格がかんたんにくずれていった」