Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

師範学校の生徒と最初の結婚 『偉大なる道』第3巻①ー2

 省の行政は改革され簡素化され、新しい政治学校の若い卒業生たちが、まもなく、まだ残っていた老朽腐敗した官吏たちの地位にとってかわるだろう。新しい学校がひらかれ、新しい工場が建てられ、近代的な道路や建築物があらわれた。新しい師範学校では男女の学生を教育していた。革命以来閉じていた軍官学校は、秋には再開されるだろう。

 

 朱徳は、1912年の春と夏は、軍隊を訓練しながらすごした。秋には軍官学校にうつり、候補生で組織された五個中隊のうちのひとつを指揮することになった。そのころまでに、国家だけでなく、彼の個人的生活にも大きな変化がおこっていた。

 

 「その秋に、私は結婚した」と朱徳は、どちらかといえば、さり気ない調子でいった。「妻の名はシャオ・チュ・フェンといった。師範学校の生徒で、18になっていた。改革運動や革命で積極的に活動した知識人階級の家の娘だった。誠実で、かなり進歩的でてん足はしていなかった。彼女の兄が、軍隊内での私の友人だったので、結婚話がすすんだ。私も26になっていた。普通の男なら結婚すべき歳で、私は普通だったので、妻がほしくなっていた」

 

 朱将軍が、彼女を愛したかどうか、それについては彼は何もいわなかったが、彼としては、私のために、愛していなかったと打ちあける必要もなかった。ふたりの関係については、たがいに友人となり、顔をあわせればいくらでも話すことはあった、というぐらいの説明で終わった。この結婚はブルジョア的なものではないこと、またふたりは結婚を決意するまえに、チュ・フェンの家の人びとの前で会い、話しをしたことを彼は誇りにしていた。これは当時とすればひとつの革命だった。というのは、良家の子女は、1911年革命後でも、結婚前に夫となる人と言葉を交わすことはしなかったからである。

 

 そのうえ、チュ・フェンは師範学校での勉学をつづけながら寄宿舎に住み、朱徳は軍官学校に住んだ。彼らは、彼にとって週に一度の自由な日曜日にだけ会った。

 

 「私たちは、どちらも、大事な任務をもっている革命家だった」と朱将軍はつけ加え、それから、彼にとっては結婚よりも重大と思われる話題に切りかえた。