Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

宋教仁、国民党結成 『偉大なる道』第3巻①ー4

 1912年の秋、有名な革命指導者宋教仁は、共和制を防衛する目的で、あらゆる革命団体をひとつにまとめて、新しい統合政党として、国民党を組織した。雲南で旧同盟会からその新組織に率先して移っていった人びとのなかに、朱徳はいた。国民党員は前年とかわらずに秘密行動をとった。というのは、袁のスパイや暗殺団は、満州朝時代とすこしも変わることなく、国中をうろついていたからだ。これに引きつづく事態についての朱将軍の物語は、悪夢のような感じがして、主要人物たちは盲目暗愚という劫罰をうけた亡霊のように、永遠になんどもくりかえし歴史的過失をおかしていった。

 

 1912年の冬に施行された第1回国会選挙は、善後借款の是否をめぐってたたかわれた。国民党の指導者たちは、死をも恐れないで、国内外で借款反対運動をおこし、「中国がこの借款を受けいれることは、のどが渇いた人が毒をのむようなものだ」と叫んだ。

 

 国民党は絶対多数の議席をえて、第1回議会は1913年4月に北京で召集されることになった。その年の3月に、しばし、あたりに一筋の光明が流れた。アメリカの新大統領ウッドロー・ウイルソンが、政府はアメリカ銀行家がその借款に参加することは認めないと声明したことが、革命派の人びとを勇気づけた。その借款は中国の主権を脅かすものだ、と彼はいった。それでアメリカ銀行団は手を引いたが、のちにはふたたび、国際銀行団としてではなく、個々の資格で立ちもどってきた。

 

 アメリカ大統領の声明とほとんど時を同じくして、国民党の組織者であり借款反対の国民運動の指導者であった宋教仁が、袁世凱の子分のひとりによって暗殺された。それは、彼が議会に出席するために北京に向かう途上でおこった。この暴動にも知らぬ顔をして、アメリカをのぞく5カ国の借款団は、イギリス系の香港上海銀行の北京支店で、袁世凱と会見して、そこでひそかに、外国人のいうがままの条件で善後借款を締結した。議会の副議長は、その部屋に飛びこんで、借款は憲法違反だと弾劾したが、だれかが手を振り、護衛のものが彼を放り出してしまった。