Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

善後借款締結への抗議行動 『偉大なる道』第3巻①ー5

 孫逸仙博士は、借款契約の実行を阻止するための必死のこころみとして、ロンドンの借款団総裁に訴え、もし銀行家たちが強行するならば、流血を見るだろうと警告した。孫博士は、彼らからあたかも存在しないかのように無視されたが、たしかに、このむごい劇の主役たちにとっては、彼は存在しないも同然だった。

 

 1913年6月までに、華南の6省がにくむべき善後借款を秘密裏に締結した袁世凱に抗議し蜂起した。しかし袁は、その借款を使って軍隊を装備し、養成し、財政をまかない、それによって彼の独裁権を確立したので、反乱軍は、ほとんど戦場に行きつかないうちにたたきつぶされた。ふたたび孫逸仙や他の共和派指導者たちは首に償金をつけられながら、海外に亡命した。孫博士は、袁の手先の追求をのがれつつ、東京の友人の家にかくれた。1913年11月には、袁は国民党を非合法として、党員は見つけしだい射殺せよと命じた。12月には、儒教を国教とすると宣言し、古来ただ帝王のみの仕事である天帝の祭を復活した。

 

 次に彼は議会を解散してしまい、彼のまわりに、旧軍人や帝政派からなる顧問会議を召集して、国家統治を手伝わせた。それからまもなく、新しい人物が舞台に登場する――というのは、アメリカ合衆国の市民フランク・グッドナウ博士が、袁の「憲政」顧問として、北京に送られてきた。1914年の夏までに、グッドナウ博士は、「国体論」と称する奇怪な書類を提出し、それを、袁は、国法とすると宣言し、それをのちに朱将軍は「世界最初のファシスト憲法」であると説明した。この「論」は、袁世凱を全中国の最高執政官とし、国家のあらゆる文官と武官の任免、官制官規の決定、宣戦講和、条約締結、それから爵位授与の権利をあたえた。

 

 2,3週間後には、グッドナウ博士は、もうひとつの書類を仕上げて、袁に、後継者を指名する権利をあたえた。2,3ヵ月すると、またもや彼は、かの悪名高い「覚書」を提出したが、それには、中国には共和制よりも帝制の方が向くということが論じられ、ただし、あまりはげしい世論の反対を浴びないように事をはこぶべきだということだった。袁は、彼の全国的な帝政運動の宣伝のために、この覚書を使った。世論の支持があるように見せかけるため、部下の役人どもに、国中の各地から、彼を皇帝とする帝政復帰の嘆願を打電するように命じた。「官民の要望もだしがたく」袁は、1916年1月元旦を、彼の即位式の日と定めると宣布した。