Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

日本の21カ条要求 『偉大なる道』第3巻①ー7

 気がめいる単調な生活をまぎらそうとして、ときどき、蒙自で出会ったフランスの実業家を訪問したが、彼はフランスの生活や制度についての質問によろこんで答え、ヴォルテールの本も紹介してくれた。朱徳は、何人かの若い共和派士官たちと話し相手になることもできたが、彼らは、彼といっしょに、師団長と師団参謀のルー・シャオ・チェンをののしった。ルーは1911年の雲南革命を裏切ったとも疑われていた。革命が勝利を得ると、このふたりの高級軍人は共和派への忠誠を誓った。蔡鍔が北京に去り、袁が帝制運動をはじめると、彼らは昔の思想にもどっていった。15年後、朱将軍が江西で中国紅軍を指揮したとき、参謀は蒋介石軍の一師団長として立ちあらわれてきた。

 

 「私は悪党めと戦場でまみえた」と朱将軍は唇を憎悪で引きしめ、そして断乎としていった。第一次世界大戦がはじまったころには、中国は完全に暗黒につつまれていた、と朱将軍はつづけた。日本は、連合国のひとつであったが、ドイツ帝国主義が1897年に中国から強奪した大海軍基地青島を占領し、おのれのものにしてしまった。さらに日本は、1915年早々に、あの悪名で鳴りひびく秘密の21カ条を中国につきつけて、中国を日本の保護領にしてしまおうとした。袁は、数ヵ月はぐずついたのち、ついに、少し修正しただけで調印したが、それは自己の死亡書に調印したことにほかならなかった。

 

 後に蔡鍔が国民に告げたところによれば、袁世凱は、日本が新帝制を認めるという条件で、その21カ条に調印したのだ。さらに袁は、他の列強にも、帝制承認と引きかえに、圧倒的な権利権益をあたえようとした。

 

 国境線にいた2年のあいだに、朱徳は二度昇進した。1915年12月には正式に大佐となり、今まで彼の大隊が属していた雲南軍第十連隊の指揮をとることになった。

 

 彼がのちに知ったことだが、この2回目の昇進は、秘密裏に北京から帰ったばかりの蔡鍔の指示によるものだった。