Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

梁啓超と蔡鍔の北京脱出 『偉大なる道』第3巻①ー8

 蔡の北京脱出は、この上ないぐらい劇的だった。2年間、昼となく夜となくつけまわした袁の秘密警察をまいて、天津にのがれ、日本行きの船に乗った。日本で亡命していた国民党の指導者たちと相談したうえ、インドシナに渡り、さらにフランス鉄路によってひそかに雲南に帰ってきた。

 

 ふたつのことで、朱は中国をおおう雲も晴れる心地がした。ひとつは彼自身の昇進だった。もうひとつは、あの有名な論客梁啓超が、病気を口実にして、北京での高官の地位を辞したという新聞の報道だった。梁は、袁世凱に送った辞表の中で、私は健康そうに見られるが、じつは「脈拍が高く、めまいがし、咳がでて、腹にガスがたまり」などと病気をずらりと並べた。そういう体調であるから、辞して気候が快適なアメリカに行って、病気療養を受けざるを得ないという。

 

 北京から汽車に数時間乗って、天津の外国租界に着くと、梁の病気はすべて消滅した。アメリカにはいかないで、すわりこんで、袁と帝制に対する弾劾文をつぎつぎにたたきつけたが、袁とすれば、立憲帝政派の梁からだっただけに、いっそう腹立たしいものであった。梁は、機敏にも、袁の刺客が来る寸前に体をかわし、やがて華南に立ちあらわれて、より快適な空気の中で攻撃をつづけた。

 

 梁が辞職して袁を攻撃していることを読んだとき、朱徳と、彼の若い友人の共和派士官たちは集まって相談した。梁が逃亡したということであれば、蔡鍔もまた逃れたか、それとも逮捕されたか、あるいは殺されたかだろうと考えられた。というのは、梁は蔡の恩師であり、北京での保護者であったからである。

 

 1915年12月の中旬、朱徳は蒙自にいたが、街頭でひとりの国民党員の旧友と出会った。その男は、初対面の人に接するときのように、ばかていねいに頭を下げたが、下げながらすばやく「君が最も信頼する共和派士官の友人たちを連れて、今晩町外れの寺まで来てくれ」とささやいた。

 

 その夜、小さな一団が約束の場所に来たとき、朱の旧友は小さな布切れを出した。それは蔡鍔の署名がある手紙で、彼の使者の指令にしたがうようにと書いてあった。