Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

雲南軍と朱徳の名声 『偉大なる道』第3巻①ー13

 諸戦の3日間のあとの再編成の期間に、朱将軍は揚子江以南の全地域を確保せよとの命令をうけ、のこりの護国軍は大江をわたって、北岸の敵の本拠地に攻撃を加えることになった。袁世凱軍の一部はもはや動揺しはじめていたが、その中には、のちに「クリスチャン将軍」の名で知られる馮玉祥(ふうぎょくしょう)将軍にひきいられた旅団もあった。馮玉祥は使節を蔡鍔将軍に送って、休戦の話をつけようとし、自分は帝制に賛同しているのではないとも蔡に告げた。四川における袁世凱軍の総司令官も使節を蔡に送って、探りを入れ、もっとも都合のいい瞬間に勝者の側につけるようにとはかった。

 

 護国軍は雲南省貴州省から援軍を呼びよせて、26個連隊となり、それをもって、袁の武装完備した北方人部隊8万と戦場でまみえることになった。1916年の3月中旬までには、四川省南部はすべて戦場になり、つづく45日間昼夜、激戦は休むことなくつづいた。4月に入るまでに、朱徳の旅団は6千人になり、さしむけられた3倍の数の新鋭の敵兵と白兵戦に入った。

 

 「われわれの背後には、哥老会の農民がひかえていた」と朱将軍は、誇らしげに語った。「まるで海の砂のようだった。江の北では、いくつかの都市を、10回以上も、取ったり取られたりしたが、最後にはわが軍は、宜賓や他の市をうばって確保し、さらに敵の要塞地濾州市を包囲してしまった。蔡鍔の司令部は、私の旅団とともに、戦況の変化に応じて移動した。納谿は三度も主人を変えた。蔡の声はますます弱くなり、目はますます熱く燃え、軍服は、痩せこけた身体に屍衣のように垂れていた。私はひどい損害を受けて、第十連隊は三度も補充しなければならなかった。雲南軍が、今にいたるまで高い名声を得たのは、この戦闘のときだった」

 

 朱徳が、獰猛頑強と忠誠の名声を得たのも、この戦闘のときだった。戦闘中の彼を見たものは、口をそろえて、彼は夜は3,4時間寝れば十分らしいとか、彼の体力は尽きるところを知らないらしいといった。部下の兵隊は、彼が自分たちと同じ農民であり、自分たちを人間として扱ってくれる人であること、いかなる士官にも自分たちを怒鳴ったり殴ったりすることを絶対許さないことを知っていた。彼は兵隊の中を動きまわりながら、百姓言葉を使った。それは含蓄のある言い回しと簡潔な語に富み、鮮明でいきいきとした言葉だ。兵隊たちは彼を愛し、傷ついたものも戦い続け、そういう傷兵を、なおるまでのあいだ病院にいれておくことは不可能だった。