Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

断末魔の袁世凱 『偉大なる道』第3巻①ー14

 この四川戦争では、袁世凱は数かぎりない術策で思うがままもてあそんだ、と朱将軍はいう。2月に、彼は即位式をのばしたが、それで革命の蔓延を食いとめられるだろうと考えたのだ。3月初旬、全国の共和派が軍を集めつつあったときに、袁世凱は北京で手を打って、何百人も殺したが、多くは彼自身の官僚であり、彼は反逆の陰謀をめぐらしたものとして断罪した。3月18日には、彼は刺客を上海に送り、そこの国民党指導者を暗殺させた。3月の末ごろ、全国は一斉反乱の前夜のような状況になり、護国軍が四川の袁世凱の軍を徹底的に粉砕しつつあったときに、彼は、時をかせごうとして、帝制を完全に廃止するといい、1913年に彼が破壊した旧国会を再招集する、と声明した。

 

 「クソジジイは狂い死にしそうだった」と朱将軍は、思い出すだけで憎悪の声を荒ららげていった。「われわれは、そんな計略には目もくれずに戦いつづけ、4月の第1週が終わるまでには、南部の6省は彼に対して戦っており、他の8省は彼の命令を片っぱしから拒否した。新しい革命軍政府が広東に樹立され、黎元洪――何年も袁に北京で幽閉されていた副大総統――が大総統に選ばれた。袁の友は、ただ外国の帝国主義者軍閥、帝政派だけだった。彼の親友でもあったふたりの最高位の将軍が、ひとりが四川で、ひとりは南京で、彼の命令にしたがうことをこばんで、引退を勧告したときには、彼は剣をひっつかんで、妾のひとりが生まれたばかりの子を抱いて寝ていた部屋に飛び込んで、ふたりともずたずたに切り殺した。彼はそういう男だった。