Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

袁世凱の遺産 『偉大なる道』第3巻①ー16

 1916年に樹立された北京政権から生まれ出てくるもののうち、彼が目にすることができたなかで、希望がもてる唯一のものは、蔡鍔将軍が四川督軍になったことだった。しかし、蔡は死にかけている人だった。袁世凱の死の翌日、6月7日に、蔡は朱に、敵の要塞濾州を奪取し、自流井の大塩井地帯をふくむ周辺一帯の地を守備せよという命令をくだした。「そのころの私の旅団は、汚れてぼろぼろで、まるで乞食の集団だった」と彼はいった。「百戦の第十連隊が、濾州一番乗りの名誉をえた。最初の時の将兵の半分は戦死していて、補充兵もいまでは古強者になっていた。われわれは身なりをととのえてから、濾州に入った。市民は、爆竹を鳴らし、歓呼し、歌をうたって、迎えてくれた。われわれが入城する一方では、北方軍の守備隊は、こそどろや強盗をはたらきながら、反対側の門から退却していった。やつらは征服者のように四川に入ってきたのだが、匪賊のように出ていった」

 

 蔡鍔将軍は、朱徳の軍司令部に接した住宅にはこばれた。医師は、床につくことを命じ、成都にゆけるぐらい回復するまでは、面会禁止ということにした。蔡は床についたが、秘書と参謀長を横においていた。そして四川復興の計画を練った。朱徳が忠告すると、蔡は弱々しい声で、もはや余命がすくないことをいい、自分の仕事こそ中国西南部の運命、いや、おそらく中国の運命を決定するだろうとこたえた。

 

 それから2週間もたたないうちに、蔡は成都にゆくといい張って、かご椅子に乗り、5個連隊をしたがえて、旅にのぼった。

 

 「一行は文字通り戦闘行進をしなければならなかった」と朱将軍はいった。「地方軍閥の軍隊が、いたるところに群がっていて、それぞれの地域を私有物のようにして支配していた。外国の金で生みつけられ育てられた軍閥、それが袁世凱の中国への遺産だった」

 

 袁の死後、時の北京駐在アメリカ公使、ポール・ラインシュ博士が、ロシア公使を訪問したことがあった。そして中国人は、ロシア人を半アジア人、つまり兄弟分として見ているでしょうか、と質問した。ロシア公使は、むっつりと答えた。「いや……彼らは、われわれをあなた方やヨーロッパの方々と同様のものと考えています。つまり災難や災害とみています」