Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

病にふす蔡鍔将軍 『偉大なる道』第3巻②ー1

 軍閥闘争の時代について語ったとき、朱将軍は、おのれを英雄として描き出そうというような努力は一切しなかった。それどころか、彼と彼をとりまく環境についての描写は、悪夢のようだった。彼の姿は、渦巻く妖雲の中であてもなくゆれ動いている感じで、はじめは自信もあり希望ももっていたが、やがて混迷の中でつまづき、ついには、彼が敵として闘っていると信じていた、その軍閥の争いの中に引きずりこまれてしまうことになった。

 

 朱将軍がいうには、蔡鍔(さいがく)は、成都で督軍に就任してから、ちょうど10日目には、その職を彼の参謀であり右腕でもあった羅偑金(らはいきん)にゆずって、一命をとりとめようと、最後のむなしい試みをするために、日本に向かわなければならなかった。蔡は、医師や看護人を引きつれて、舟で河をくだって濾州の朱徳の家にきて数日休息し、それからまた旅をつづけるということになった。朱は、彼の姿を見たとき、絶望につき落とされた。というのは、蔡はもはや影法師のようなものでしかなく、弱りはてて、2,3歩ほどしか歩くことができず、声はまったくかぼそく、朱は寝床のうえに身をかがめて、ようやく聞きとることができた。

 

 自分の命がないことはわかっているのだから、この日本行きは時間と金の浪費にすぎない、と蔡はささやいた。死を恐れているのではなく、ただ中国の将来を危惧していた。残酷で、親日的な段祺瑞総理が、いまや北京の本当の主人だった。蔡は、四川省を共和派の堅固な拠点としてきずき上げようと望んだが、やっと、軍事組織の基礎をきずいて、将来の政治改革の計画の基本にする時間があっただけだった。もし蔡の計画が完成するならば、護国軍は、南方の孫逸仙博士の軍と結束して、北方の軍閥とその主人たる外国勢力の陰謀を破砕する力を発揮するだろう。

 

 朱徳が、友であり指導者である瀕死の人の言葉に聴きいったとき、彼もまた将来の不安でいっぱいになった。この「危険な天才」の指導力を四川がうしなうとき、護国軍内の野心家どもは野放しになり、軍閥としての荒稼ぎをはじめるだろう。蔡の天才と無私の精神があったからこそ、いままで彼らの忠誠を保持することができたが、彼らのほとんどは孫博士に会ったこともないので、彼ですらも蔡の代わりの役をはたすことはできないだろう。中国西部には、蔡ぐらいの貫禄がある指導者はいなかった。


 けれども、革命の諸軍をつなぎとめる希望も見えないことはなかった。反袁世凱の抗争からは、1912年憲法の擁護という強力な国民運動が生まれ出ていた。いまや護法軍、または単に護軍とみずからを呼んでいた護国軍は、中国西南部の国民運動の主力となっていた。