Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

民族復興運動「新思潮」 『偉大なる道』第3巻②ー2

 この民族復興の運動の先頭に立ったのは、北京の国立大学であり、1915年の混乱の最中にすぐれた教授たちがきらきら輝く無数の星のように輩出して、「新文化」または「新思潮」と呼号し、外国人たちはこの新運動を「ルネサンス」とよんだ。

 

 中国人が一般的に「新思潮」と呼んだ、この運動は、まもなく朱徳や彼の何人かの友人の生活に影響をあたえることになったが、1916年、1917年、とくに1917年のロシア革命の思想が全中国に浸透しはじめたのち、その主張者らは、中国文化における一切の封建的なものに挑戦したが、そのなかには儒教も、また死せる古典語すなわち古い「文理」もふくまれていた。混乱の中の中国におけるこの文化革命ほどの知的かつ思想的な激動は、人類の歴史においてもはじめてのものであった。

 

 朱将軍がこうしたことを語るとき、彼の声と態度には、悲しみと誇りがあやしく入りまじった。彼は、中国の知識階級の、不断の努力と不屈の勇気を誇りとしたが、蔡鍔が34歳の若さで、悲劇的な死にゆるやかにのぞんでいったことや、彼自身は国中に鳴りひびく大運動から隔離されていたことを追想するときに、悲しんだ。

 

 この「新思潮」の、ほんのとばっちりのようなものが、彼のところにとどいたけだった。彼の友人であり秘書の孫炳文の北京の友人が、『新青年』という新しい雑誌のことを教えてきたが、編集者のなかに陳独秀教授がいて、彼は後に中国共産党の創設者のひとりとなり、書記になった。その雑誌は、朱徳が古い「文理」で書いていたころに、すでに中国語の書き方を改革しようとしていたのだが、彼はかなりあとになって、あらためて言葉を習いなおそうとしたときに、はじめてその雑誌を見た。彼が、この「新思潮」の運動の、教育普及、民主主義、自然科学などの叫びを回顧するとき、人の生涯の道を一変するような大きな機会を、ほとんどまったく取り逃がしてしまった、という感慨をもった。はるかな華北の地では、イプセンの『人形の家』そのほかの西洋の演劇が熱狂的な感動をもって迎えられているということを、ほんのこだまとして耳にするだけだった。それから彼は、つぶやくように説明したが、当時でもまだ、堅気の娘は舞台に立つことができなかったので、『人形の家』のノラの役を演じたのは若い男子学生たちであり、そのようにして近代の中国女性のための道を切り開いていったものだ。