Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

蔡鍔将軍、日本で客死 『偉大なる道』第3巻②ー3

 彼はさらにいろいろなことを思い出した。孫炳文とならんですわりながら、消耗しきった蔡鍔の身体をのぞきこんだこと、孫が「新思潮」について熱く語ったこと、また彼自身が、蔡を慰めはげまそうと思って、選挙による旧議会がふたたび北京で召集され、儒教を国教とすることを撤廃し、新たな独裁者が起こることをふせぐためには、大総統と内閣は議会に対して責任をもち、その他あらゆる官吏の任命についても同様にするように宣告したと説明したことなどを。彼は、死にいく人にむかって、事態は完全に悪いというほどではありません、と力づけた。中国の青年は歴史をくり返すことは許さないだろう、ともいった。しかし、蔡の精神は、在りし日の鋭さをすこしも失っていないようで、つぶやき声で、段祺瑞総理は袁世凱と同じであり、彼の暗影はすでに全国にのびつつある、と警告した。

 

 やがて、朱と孫と他の士官達が、悲しみに打たれて波止場に立ち、蔡鍔の船が揚子江上の霧の中に消えてゆくのを見送る日がきた。その後、孫は、みなし子のようになげく朱を慰めることができなかった。

 

 ちょうどそのころ、朱徳の若い妻が雲南から到着した。身重でありながら、かご椅子で長い陸路の旅をしてきたのだが、これから、彼が借りた小さな家の女主人となる。蔡の出発後まもなく、9月の末に、彼女は男の子を生んだ。パオ・朱と名づけて、その誕生の喜びにひたっていたとき、蔡鍔将軍が日本で客死したという報せが、全中国に閃光(せんこう)のように伝わった。11月18日のことだった。悲しみに打たれた朱は、妻子のことも忘れるぐらいだった。

 

 蔡の遺骸は、まもなく上海に到着し、そこで告別式をしたあとに、故郷の湖南省にはこばれた。そこでは、長沙を見下ろす高い山上に、記念碑が建てられた。そのころは憂いにとざされた一時期だった。というのは、同じく高名な革命指導者の黄興も、やはり蔡のように、長年の奮闘と苦労のために疲れはてて、同じ結核で死んだ。国民は、ともに若くして亡くなった、このふたりの高貴な同胞を哀悼した。

 

 雲南省と全雲南軍は、1911年以来彼らをひきいた若い指導者のために、特別な追悼式をあげた。朱徳はみじめであった。蔡鍔は、彼の最高指揮者であり、長い年月彼の政治指導にしたがっていた人であっただけでなく、彼の親友でもあり教師でもあった。そういう関係こそ、古来の教養が孝行についで神聖なものにしていたのだが、その古い教養が朱に深く根をおろしていた。さらに、拝跪(はいき)するものといえばいいすぎかもしれないが、蔡鍔が少なくとも朱が尊重するすべてのもの――絢爛たる才華、知識、直観力、強靭さ、そして無私の精神の持ち主であったということで、朱の悲しみはいっそうつのっていった。蔡は彼の道しるべの星だったので、いまや彼は道を見うしなうことになった。