Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

軍閥の台頭 『偉大なる道』第3巻②ー4

 蔡鍔の遺骸が地下に静かに落ち着くひまもないほどのときに、朱徳の若い夫人が、赤痢のような奇異な熱病におかされて亡くなった。さらに、彼を埋めるかどうかのときに、少年時代の級友ウ・シャオ・ペイが、かねて自宅療養でふせていたが、中国の知識人階級の怨敵結核の犠牲となってたおれた。

 

 朱徳はこれまで悲哀の味を知らなかったが、今それは三重になって襲いかかり、彼をうちのめしてしまった。手元に残された母をなくした子は、いっとき友人に世話をしてもらうことになった。このとき、最高指揮官が、彼を呼んで重大事の相談をもちかけた。北京の段祺瑞は、全国の地方政治家や軍閥のところに手先を送り、その鼻先に金を見せびらかして篭絡(ろうらく)しようとしていた。四川省の敗残した軍閥どもも、軍の再建をはかりつつあり、蔡が雲南の指揮を委嘱した唐継堯は、にわかに大金をかかえて、おのれの小王国をきずこうとしはじめていた。北方の軍閥たちはといえば、外国人たちに国政をとる能力のない「未経験な青二才」などとよばれていた議会を、解散するべきと要求していた。

 

 1916年も暮れないうちに、四川の地方軍閥どもは成都を攻撃したので、朱徳は二個旅団をひきいて救援に向かった。彼が道の半ばもいかないうちに、市は陥落して、督軍羅偑金は逃亡した。朱徳は基地である濾州に引き上げたが、一方、雲南軍は、――今もみずから護国軍と呼んでいたが、成都の勝者たちと休戦をとり結び、互いに友好をよそおいながら兵を募って訓練し、最後の権力闘争の機会をねらっていた。この瞬間以後、朱徳は、本質を見抜くことをしないで、軍閥の闘争のクモの巣に引っかかってしまった。というのは、彼は、雲南軍こそは中国西部において憲法をまもる唯一の軍隊、孫逸仙と共和制に忠誠を誓う唯一の軍隊であると思っていたからだった。たしかにそうだ。しかも、あちこち指揮者たちは、段総理の手先の掌中でジャラジャラ鳴る洋銀の音に耳をかしはじめた。まだ裏切ってはいなかったが、誘惑は大きかった。