Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

五四運動の高まり 『偉大なる道』第3巻②ー7

 この再婚の時期は、偉大なる五四運動のころにあたっていたが、それは1919年の学生運動のことであって、北京の学生と教授が、北京の軍閥政府の国家への裏切りに対し、またパリ講和会議において連合国が、ドイツの中国内の権益を日本に与えるという裏切りに対して、大規模な示威運動をおこしたのである。この運動は、文化革命の一部分をになうものであったが、それが全中国に山火事のように燃えひろがり、日貨排斥を開始し、国民中の愛国分子を呼びさました。濾州での最初の研究会は、そのころ朱徳の家で組織され、やがて地域全体の先覚者たちの集会場所となった。みなは本や雑誌を読んで議論し、世界にまきおこった新思想についての大討論がなされた。

 

 「封建的な社会慣習は、四川ではまだすごく強かった」と朱将軍は説明した。「だが、妻と私は、友人といっしょに、それをはげしく攻撃した。仲間の多くのものが、西洋の知識人階級のような生活をして、晩餐会をやったり……時には日曜の晩などにマージャン会をやったりしたが、そんなとき、男も女も同等の社会的地位のものとしてふるまった。男は自分の妻や姉妹をつれてきたが、その女たちは、生まれてはじめて、自分の一家の男以外のものと意見をたたかわせることを学んだ。もちろん、古い封建勢力は、われわれを破戒無慙(むざん)の徒とののしったが、われわれはもっとも道徳的だった。女性の解放は、五四運動の多くの局面のうちのひとつだった。民主主義、科学、民族人種の平等も一方の局面をなすものだったし、無政府主義共産主義などの社会理論という局面もあった。全中国に、資本主義、無政府主義共産主義についての議論が活発になされるようになった。だが、論者のすべてが、自分が何を論じているのか知っていた、というわけではなかった。濾州のわれわれの研究会でも、プロレタリアが革命を指導する、ということはわけがわからなかった。マルクス主義の文献といっても、雑誌記事以外にはなかったし、われわれは、プロレタリアとは召使とか苦力とか塩井労働者などの、読み書きもできない連中と考えていた。ところが、マルクス主義を説くコミュニストの論客といえば、えらい教授や、学生その他の知識人階級であって、労働者ではないから、何が何だかわからなくなる。われわれの研究会にいちばん強く影響した思想は、人種民族の平等、征服された植民地民族の独立への権利と国家の産業的文化的開発などだった」

 

 朱将軍が濾州に住んでいた5年の間に、外国の帝国主義者に支援された軍閥どもは、ふたたび共和国を食いちらしはじめ、彼と同志たちは、自分たちは軍閥政治とたたかいつつ、孫逸仙の民族革命運動を進めつつあると信じつづけながら、いつしかその泥沼に引きずりこまれていった。