Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

軍閥時代のはじまり 『偉大なる道』第3巻③ー1

 中国の軍閥時代の話は早く片付けてしまおうと思って、私は朱将軍にむかって、その軍閥さわぎはいつ始まっていつ終わったのか、それだけ教えてください、とたのんだ。

 

 それは袁世凱とともに始まったが、今日もまだ終了していない、と彼はこたえた。そう彼がいったのは、1937年の春のころだ。1924年のころから、いっとき希望が見えたことはあった。というのは、孫逸仙が民族革命の大運動を指導して、軍閥と外国の帝国主義を相手に戦ったからだった。しかし、この一時期もまた、1927年に蒋介石が砲火を中国人民にむけ、外国と中国の銀行家から金を借りて、彼の軍事独裁政権をうちたてたことによって流産した。彼の先輩どもと同様に、蒋の政治は、旧式の軍閥も新型の軍閥といっしょに抱き込み、混乱と反動の事態はつづいた。

 

 朱徳の説明によれば、1916年に蔡鍔(さいがく)が亡くなると、四川は軍閥政治の重要な舞台のひとつとなったが、やはり何といっても北京が、あらゆる種類の同胞相食む闘争の発生地だった。1916年から5年間、日本帝国主義御用の「強い男」といわれた段祺瑞総理は、7回も辞職したり権力の座から追いまくられたりした。しかし、そのたびに彼は、日本からの軍事的財政的援助をうけながら、彼と彼の相棒の軍閥の武力をもって、復帰してきた。彼の権力の腕は長く伸びて、あらゆる省の軍閥に同盟者をもっていた。

 

 蔡の身体がまだ墓で冷えきらないぐらいのときに、すでに段に金をつかまされた四川の地方軍閥は、雲南の「護軍」の手から成都をうばい取った。それからしばらくの休戦の間に、成都の新支配者らは、新しい税を課し、いちばん高値をつけるものに官職を売り、金持ちをとらえて、要求どおりの賄賂をはらうまでは牢に入れた。何年も先までの地租をはらえない農民は、追っぱらわれ、その土地は新支配者らのものになった。当時の四川の将軍どもがきずき上げた大領地は、こうして追われた農民から取り上げたものであり、しかも、このような領地創設のやり方は、いま朱将軍が物語っているときまで、ずっと続いてきている。これらの領地の中には数千エーカーの広さになるものがあった。