Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

マルクス主義への関心 『偉大なる道』第3巻③ー5

 いや、迷路はこれでも尽きない。第二次世界大戦後、アメリカが中国における主導の外国勢力として立ちあらわれたとき、アメリカのスポークスマンたちは「政学」系こそ、中国に民主主義政府を樹立する力をもつ「自由主義者」であり「民主主義者」だと推奨した。1949年になっても、標本Xも張群も、四川にもどっていて、老齢とはいいながらも政治軍事の権力にしがみつき、蒋介石の方にかたむいてみたり、朱徳将軍がひきいる人民解放軍にむかって中立の立場をとってみたりしていた。最近の知らせでは、彼らはまだふたつの勢力間で取引しようとしている。

 

 朱将軍が、そうした往年の四川について語るとき、しばしば口にしたことは、彼も護軍も、国内で興亡がつづく孫逸仙の弱体共和派政権の一本の腕だったということだった。この頃の朱徳は、政治的にいえば、分裂した人格だった。というのは、外面的には、将軍どもの絶え間ない闘争に巻きこまれていたが、内面的には、自らを、1919年このかた中国をゆり動かした五四運動の道をゆくものと自任していて、その運動の思想は、彼の家の研究会でたえず討議しつづけられていた。

 

 「議論につづく議論だったが、結論はつかなかった」朱将軍はいった。「労働者の団体――のちの労働組合の種子となるものだが、中国の2,3の地でつくられたということは読んだが、四川にはそのような組織はひとつもなかった。マルクス主義研究会も、1919年ごろには、2,3の地では発生していた。1920年には、そうした仲間から成長して、最初の共産主義グループができたが、私はそれについてはほとんど知らず、マルクス主義の文献といっても、一般向きの雑誌記事のほかは手に入らなかった。文献では最初に中国語に翻訳された『共産党宣言』の一部すらも持っていなかった」

 

 マルクス主義には無知だったが、彼と仲間は、ロシアの赤軍が、帝政派の軍閥と14の資本主義国家の侵入者を撃破したという報道には深い感銘をうけた、と彼はつけくわえた。どうしてロシアの革命家たちは、あのような強力な軍隊――それも西洋世界のものまでを打破して、中国人の挫折をしり目に、みずからの政権を樹立することができたのか? 友人の孫炳文と彼は、何度もこの問題を論じて、ついに、中国には何か根本的にまちがったものがある、という結論に達した。結局、中国人がおのれを売ることを拒否したならば、外部の諸強国は中国人を腐敗堕落させることはできなかったはずだ、と彼らは論じた。また彼らは護軍自体についても論じたが、士官のあるものは、北京流の軍閥と異なるところはなかった。孫炳文は、たびたび、すべてを投げ出して北京に行って五四運動の指導者とつながりたい、という意志をしめした。朱徳はといえば、彼はいつかは外遊して、諸外国がいかにして独立を維持しているのかを、納得できるまで研究したい、と言明した。