Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

雲南府で狐疑逡巡の日々 『偉大なる道』第3巻④ー1

 1921年が明けるとすぐに、護軍は雲南に向かって殺到し、ほんの数発を交えたぐらいで首府雲南府を占領し、全省を掌握した。多くの市を支配するたくさんの官吏や将軍たちは、時をかせぐために、転身して新政権に忠誠を誓ったが、「小王」唐継堯は、つかめるかぎりの財物をもって省から逃げ出した。

 

 護軍の革命的名声はまだ生きていたので、中国のいたるところから、進歩的な知識人がはせ参じてきて、この省を共和派の基地としてたてなおすために協力しようとした。しかし、事態は以前と変わっていたので、朱徳は状況を懐疑的な目でながめた。全中国のほとんどすべての省を、軍閥の部隊は縦横に行進し、収穫は足元でふみつぶされ、ちりがおさまってみれば、すべて砂漠であり、土地をうしなった農民は何百万もうろつき、一椀の飯のためにはどんな軍隊にでも入った。無政府状態、混沌と絶望が、数年うちつづき、北京は、軍閥と外国の銀行家が病み横たわる国土を取引する市場にほかならなかった。孫逸仙博士は、悪がより少ない方をえらぼうとして、いろいろな軍閥と同盟を結んでいたが、そのたびごとに煮え湯をのまされる結果でおわった。

 

 いかなる道も見い出すことができず、朱は護軍に辞表を出して、外国への留学の道にすすむことを発表した。同僚の士官たちは、新政権が確立するまでとどまり、それまでは警察長官をつとめてくれと切望した。彼は、ながながと押し問答をしたあげく承知して、妻子を呼びよせた。妻子はすぐにきた。

 

 彼はとどまることを承諾した。しかし、雲南府は過ぎし日を悪夢のようによみがえらせた。広く清潔な街路をあちこち歩くと、青年の日の幻が浮かんできて彼を悩ました。この道を何年も前に行進しながら、ほこらかに満州朝打倒を叫んだ。あそこの城壁のかなたには軍官学校があり、国の悲惨を救うことを熱狂的に学び、またここでは、総督の官庁のとりでに突撃した。蔡鍔はここの広場で勝利について語り、あそこの建物の中で袁世凱の帝制を倒す計画を練った。蔡鍔がかたったのは何だったのか……その恐ろしい言葉には、いまのわが身につまされるものがある。

 

 「どっちみち、自分の時はいくばくもない」