Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

雲南府争奪戦 『偉大なる道』第3巻④ー3

 1921年5月には、孫逸仙博士は、またもや朱に逡巡の口実をあたえた。というのは、孫博士の召集によって、共和国非常国会が広東でひらかれ、新しく南方国民政府を創設し、孫博士を大総統に推した。孫博士は、強烈な声明を発表して、新政府は軍閥を根こそぎにし、武力をもって国家を統一し、中国の主権をほとんど一世紀にわたってしばりつけていた不平等条約の鎖を断ち切るだろう、と叫んだ。噂によれば、孫博士はソビエト連邦と同盟をむすぶだろうということだった。

 

 秋がきたとき、とうとう朱は外遊を断行することにした。彼は、アヘン中毒をなおすといわれる広東産の薬草をもとめ、ポケットに入れて持ちまわり、いざというときいつでもこれを用いるのだ、と自分にいいきかせた。つぎに、いままでの貯蓄総額一万元を、パリの銀行にうつして、彼の妻子が、妻の財産以上の金を必要とする場合にそなえた。

 

 やがて1922年が明ける。雲南軍は、孫逸仙博士の命令に応じて、軍閥帝国主義とたたかうために、東に向かって進発した。雲南府には弱体な守備隊だけが残った。2,3週間がすぎ、雲南軍の主力が遠くに去ったあとに、たちまち恐慌が雲南府をおそった。「小王」唐継堯が、地方民兵や匪賊をともない市に向かってきており、昔の配下の将軍や役人どもは、目の前でジャラジャラする銀に手をさしのばしながら、彼のもとにはせ参じつつあった。知識人たちは省外に逃げたり身をかくし、朱は、妻子を四川に逃げる準備をしていた友人に託した。

 

 雲南府争奪戦は、はじまったかと思うとおわった。新政府首脳は地方守備隊をもって戦ったが、捕らえられ斬首された。朱徳は、いそいでヨーロッパ行きの旅費の金を取りまとめ、武装し、名馬にのり、19名の国民党指導者たちと合流して、みな騎兵隊をしたがえて、まず西門を突破して、西方の楚雄に急走しようと計画した。そこからは、道は南にビルマにむかってつづいている。この20名の指導者の一団の中には、蔡鍔の旧友の老練の革命家、羅偑金将軍もいた。