Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

上海で不眠症の治療 『偉大なる道』第4巻①ー1

 朱将軍は、ヨーロッパに向けて出発する前にやろうと決めたことが3つあった。揚子江を上海へとくだっていくあいだに思いついたものだが、そういうふうに、彼は、生涯を通じて、あらかじめ十分に計画を練ってことをおこなうという習慣をもっていた。

 

 1つ目は、アヘンをやめて以来、彼を苦しめていた不眠症を治すために、上海のフランス病院に入る。もうほとんどアヘンをほしがらないようになってはいたが、不眠症の辛さのために、麻薬への誘惑を感じることがあった。

 

 2つ目は、沿海地方華北をできるだけ見学する。というのは、彼は、中国といっても極西と西南のほかは知らない田舎者だったからだ。南京、上海、北京などの大都市の名前は、彼の五体の中にきざみつけられていたが、実際のところは、想像するしかなかった。上海は帝国主義の極東における稜堡(りょうほう)ということは知ってはいたが、中国西部の人びとは、新しい科学によって生まれ、金のなる木が生えている市だ、といい伝えていた。

 

 3つ目は、北京の新聞発行に従事している孫炳文をとおして、五四運動の指導者たちを紹介してもらい、孫が前年日本でともにはたらいた孫逸仙やその他の民族革命の指導者たちにも会いたいと思った。そうした民族革命の指導者のなかで、彼が会いたかったのは、国立北京大学の教授であり、新文化運動の指導者であり、生まれたばかりの中国共産党の創建者であり書記長である陳独秀だった。

 

 上海につくとただちに、朱将軍は人力車を急がせてフランス病院にゆき、自分はアヘンを吸う習慣はなおしたが、まだ夜間に眠ることができないことをいい、治療することができるだろうか、とたずねた。

 

 朱将軍の諸計画に、フランスの影響が強かったことについては、15年後に生涯のことを私に語ったときでも、みずからは気づいていないようだった。彼は自分の金はパリの銀行に送り、上海に上陸すればフランス病院を目ざし、やがてフランス汽船会社にいって、9月はじめにマルセイユに向かうフランス船「アルジェ号」の3等切符2枚を予約する。1枚は彼自身のもの、もう1枚は孫炳文のものであり、その件については、上海につく前から手紙を出していた。孫からは予約をとってくれ、それから北京に来るようにという返事がきた。