Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

英領香港のストライキ(1922年) 『偉大なる道』第4巻①ー2

 朱徳は病院に1週間入院して、退院すると、旧同盟会員で雲南から亡命してきていた友人のところにゆき、そこにさらに1週間いて、そのあいだに、夢みたいな話ばかりきかされていた、この上海市のあちこちを見物した。

 

 入院中は、友人が本や新聞を持ってきたので、彼は予定計画を立てて読破していった。国中に新しい風が吹きまきはじめ、彼が読んだ新聞は、新しい労働運動と、それをみちびく共産党のことでいっぱいだった。それを読んだ朱徳は、新しい共産党に加入することに決めた。党の理論がどういうものであるかについては、よくわかっていなかったが、ただ1つだけは明白だった。外国の帝国主義者たちが、あらゆる悪口雑言をもって党を攻撃していた。もしこの党が、中国の外敵によって脅威と見られているなら、まさにそれこそ朱徳の求める党だった。

 

 共産党は、1921年7月1日、ちょうど彼が上海にくる1年前に創建されていた。まだ小さくて弱かったが、五四運動の申し子であり、反封建、反軍閥反帝国主義だった。1922年の1月、朱徳と同志たちが雲南の山地を逃亡していたころ、英領香港の中国人船員たちは、賃金引き上げと地下海員組合を承認することを要求した。英国人船員は組合をもっていて、賃金の大幅引き上げに成功していたところだったが、中国人はこの8年間に、生計費は2倍以上になっているにもかかわらず、すこしも賃金が上がっていなかった。

 

 香港の英国人は、中国人のあらゆる要求をしりぞけて、要求した海員組合の指導者たちを捕らえて、投獄した。この指導者たちは牢獄で体刑を加えられて、一人は殺された。逮捕をのがれていた指導者蘇兆徴の呼びかけに応じて、船員はひとりのこらずストライキをやり、24時間内に、大都市香港のすべての労働者は、白人や中国人の邸宅の使用人にいたるまでが罷業した。イギリス勢力の自慢の拠点香港は、50日間麻痺状態におちいった。ストライキは、海員組合の承認と、少額の賃金引き上げと、逮捕され体刑を加えられたものへの謝罪ということでおわった。