Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

上海で孫逸仙と会見 『偉大なる道』第4巻①ー6

 上海にもどったふたりは、当時夫人とともにフランス租界に住んでいた孫逸仙博士の家で、ある午前をすごした。朱徳雲南省から脱走したときの仲間のひとりの金漢鼎将軍もいっしょだった。

 

 朱将軍は、深い感動とともに、この偉大な民族指導者との、最初にして最後の会見について回想する。そのとき56歳だった孫逸仙は、生涯の37年間を革命運動のなかですごしてきていた。しかし、今もなお、動作は機敏で躍動感があふれ、敗北につぐ敗北のあとでも、未来に対しては楽観をもちつづけていた。


 「謙遜して、とても誠実な人だった」と朱将軍はいった。「自分の輩下のひとりの将軍に裏切られて、広東から追われていたのだが、その広東を奪回して、ふたたび共和派政権を樹立しようと、計画中だった。それには、いま広西省にいる雲南軍にこそ頼るべきだと考え、われわれに援助をもとめた。われわれが雲南軍にもどって、再組織することを希望した。彼は、手付金のようにして10万ドルは渡せるといった。金将軍はその場で申し出を了承したが、孫と朱徳はことわった。

 

 「孫博士は、われわれの拒絶の理由を、注意深くきいた。孫と私は、孫博士や国民党員たちがあちこちの軍閥と同盟をむすぶというような戦術を、もう信用しなくなっていた。このような戦術は、いつも、革命派の敗北と軍閥どもの強化という結果に終わっていた。われわれ自身が、11年の貴重な年月を、そういう動物の檻の中で生きてきた。中国の革命は失敗したのに、ロシア革命は成功した。どうしてロシア人は成功したかといえば、彼らは、われわれの知らない理論と方法論を身につけた共産主義者だったからだ。

 

 「われわれは、孫博士にむかって、外国へ留学することを決めていて、ふたたび中国の国事にとりくむ前に、共産主義者に会い、共産主義を研究するつもりだ、といった。香港の大ストライキの勝利、また全国の労働運動の勃興を見れば、共産主義者たちが、われわれが必要とする何かをもっていることは明白だった。「孫逸仙は、共産党に対してはまったく偏見をもっていなかった。ただわれわれにむかって、外国で勉強したいのなら、どうしてアメリカにゆかないのか、あそこには封建の遺風などはなく、多くの進歩的な制度があるのだが、といった。われわれはそれに答えて、ふたりともアメリカに長く住んで勉強するだけの金はもっていないし、社会主義者がもっとも強いといわれているヨーロッパをえらんだ、といった。アメリカという国は、アメリカ人にとっては結構なものであるかも知れないが、あなたの共和主義への闘争については、すこしも助けてくれなかった、とわれわれは彼に注意をうながした。アメリカは彼の敵を助け、承認しただけだった。しかし、彼は、彼の革命運動の長い年月のあいだ、終始アメリカの方をむいて援助をもとめた。もちろん、ヨーロッパ諸国にしても同じことだったが、しかし今日ではヨーロッパには新しい社会的勢力があるから、われわれにとって、より頼もしいかも知れない。

 

 「孫博士は同意した。国民党の新政策を制定したいといった。しかし、それが果たしてどういうものであるかは、そのときはきくことができなかった。それが明かになるまでには、2年かかった。そのときに彼は、広東革命政府とソビエト連邦との同盟を結んだ」