Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

共産党書記長陳独秀との会見 『偉大なる道』第4巻①ー8

 つぎは、朱徳がかねて待望していた、共産党書記長陳独秀との会見があった。とうとう彼は、文化復興の主要な指導者で、高名な大学教授、輝かしい論客、編集者、そして共産党を組織した中心人物のひとりと会うことになった。陳は当時40歳ぐらいで、精力的で決断力に富み、慎重で、軽はずみな行動はとらなかった。陳は浅黒く、疱瘡(ほうそう)のあとがあった。共同租界に接して、中国人が密集して住む閘北区域の小さな部屋で簡素な生活を営んでいた。この部屋から、地下労働組合を組織しながら、共産主義運動を指導していた。

 

 この会見を追想するとき、朱徳の胸のうちには、あきらかに大きな葛藤が生まれたのだが、彼はそれについて語ることを好まなかった。その後に過ぎさった歳月のあいだに、陳をとりまいて荒れさわいだ大政治闘争のことが、彼が語るのを好まない原因の一部分となっていたかも知れない。その会見におもむくにあたっては、朱は、共産党員になりたいと申し出さえすれば、すぐに承認されるものと信じていた。国民党の場合は、だれでも希望するものは入ることができた。朱は共産党も同じ手続きだろうと思い、入ればそこで新しい革命への道に踏み出せると確信していた。

 

 冷静に注意深く、陳は訪問客を観察したが、あまりかんばしくない評判のある朱将軍に対しては、とくにそうだった。中国において独特の意味をもつ、軍国主義の長い歴史が、彼の心のなかに、そのときくりひろげられたにちがいない。軍閥横行する極西地域の将軍が、どんな理由で、中国の貧者の党に入りたがるのだろうか? 朱徳の口からはうまく言葉も出ず、一度は消えていたかと思われた絶望の暗雲が、ふたたび立ちもどって彼をつつんでしまった。

 

 陳独秀は彼に告げた――労働者の道をおのれのものとし、そのためには生命を捧げる人間のみが、共産党に加入することができる。朱徳のような人にとっては、長い研究と誠実な努力がいるだろう。

 

 朱は、失望のために、ただ黙ってきいた。未来への扉をたたいたとき、それは彼のために開くことを拒んだのだ。

 

 「みじめな時期だった」朱将軍は、なさけなそうに語った。「私は希望をうしなって混乱した。私の片足は旧秩序の中に残り、もう一方の足は新秩序にふみこむことができなかった。そのころの上海には、雲南省からの亡命者がいっぱいきていたが、彼らは仕事もなく、生活の道をうしなっていた。毎日、私に金をねだり、私は大儲けをやった男ではない、といっても信じてくれなかった。説明しても本当にしなかった。毎日、私をとりまいた。私は罪人にでもなったような気がした」

 

 1922年の9月はじめに、朱徳と友人はフランス客船アルジェ号に乗船し、いよいよ祖国解放の秘義を探求するために、異国に向かってすすむことになった。