Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

ベルリンでの探検と読書の日々 『偉大なる道』第4巻②ー5

 彼のやり方は、かつて中国古典を勉強するときにとった丹念で計画的なやり方と、おどろくほど似ていた。まずベルリンの地図を買って、記されている街路と施設の名前を中国語に訳した。道をたずねるにはドイツ語の力が足りなかったので、街路を歩いて行っては、しらみつぶしに、博物館、学校、画廊をおとずれ、ビヤホールや料理店に入り、許可されるかぎりの工場にも入る。歌劇にも演奏会にもゆく。国会も訪問し、公園の中も散歩し、個人の家庭もおとずれ、どんな家具調度品の中で、どのように生活しているのかを知ろうとつとめる。教会にまで入りこんでいって、中国の寺とどうちがうのかを観察する。

 

 彼は、眼がいたくなるまで本を読んだあとには、ベルリンの探検に出かけたが、ほとんどひとりだったが、ときには、新しく見出した友人鄧演達といっしょだった。鄧は有名な知識人青年であり、のちには中国革命の最も高名な指導者のひとりとなり、そして殉教者の死をとげた。その鄧は、午後、また夜に、朱と行動をともにしたが、しまいには、尽きることがない行進に耐えかねて落伍した。友人が彼に、朱徳はどこにいるのか、とたずねるなら、鄧は答えるだろう。

 

 「市内のどこかににいるよ。昨日は美術館だったが、おとついは軍事博物館だったし、ゆうべは音楽会だった。そう、音楽会だよ! 神妙にすわって、ベートベンとやらいう人間のつくった鳴り物さわぎをきく。好きなんだそうだ、だから、あの男が書いたものは全部聴くんだと、いってる!」

 

 他の学生が、一度いったことがある。「朱がぼくを歌劇に引っぱった。ぼくは眠ってしまった。後で朱が、よかったか、とぼくにたずねた。ぼくは、幕間に食べたサンドイッチがよかった、といった。そしたら、帰り道はずっと講義をきかされた。もちろんぼくは、スポーツパレスの大集会などのときの歌は好きだがね、そのほかのドイツ音楽とかいうものは、ただもう、でかい騒音でしかない」

 

 朱徳にとっても、演奏会や歌劇は、はじめは、でかい騒音にしかすぎなかったが、メロディーやモチーフをとらえることができると、やがて全体を貫ぬく創造的な想像力のリズムをつかむことができた。全体としての作曲を理解することは無理だったが、それでも、夜の眠りに入ろうとするときなど、夢うつつの中を、創造の朝とか軍隊の行進とか人間の必死の奮闘、そうしたものを思わせる雄大なもののひびきが流れてきた。