Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

孫逸仙、黄埔軍官学校設立 『偉大なる道』第4巻②ー8

 1924年のはじめに、彼はゲッティンゲンを去ってベルリンにもどり、広東の孫逸仙の提唱に基づく改組国民党の支部をつくることになった。すでに孫逸仙は、かつての華南の革命運動の根拠地を奪回して、国民党の第一回全国大会を召集していた。この党は、以前は地主、商人、資本家の階級から流れてきた中産階級の知識人からなる性格のあいまいな団体だったが、その当時、創建されて間もない共産党をふくむ、あらゆる党派と団体で構成される民族統一戦線という面をもつようになった。有能な学生組織者周恩来は、朱徳の旧友孫炳文やその他数人の中国人学生とともに広東に帰っていった。孫逸仙が新たに建てて、蒋介石が校長となった、広東近郊の黄埔軍官学校で、周は政治部主任になり、孫炳文は副主任となった。蒋介石は、朱徳とほぼ同年輩の軍人だったが、1911年の上海での革命運動では端役をつとめ、そののち同市で株式仲買人になり、悪名高い青幇との因縁をむすぶようになっていた。青幇というのは、ひとつの地下組織であって、上海のあらゆる中国人商社から金を取りたて、賭博と婦女売買の元締めとなっていた。しかし、この青幇の財源中最も主要なものといえば、アヘンであって、中国在住の外国人は、その封建的な親分のことを、上海の「アヘン皇帝」と呼んでいた。

 

 蒋介石は、孫逸仙ソ連に短期留学させた士官のひとりだった。中国に帰国すると、演説をして、国際共産党こそは全世界の被圧迫者の希望であるとさけんだ。

 

 国民党を、すべての革命勢力の民族統一戦線に改組することによって、中国の新時代はひらけた、と朱将軍はいった。在来の「三民主義」に、孫逸仙は、さらに三大政策をつけくわえて、新政権の基礎とした。三民主義とは、民族、民権、民生、であったが、三大政策とは、共産党との協力、労働者と農民の利益の増進、およびソ連との同盟だった。