Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

ベルリンでの活動と妨害 『偉大なる道』第4巻②ー10

 さて、1924年のはじめにゲッティンゲン大学を去った朱徳が、ベルリンにもどり、ドイツ在住のすべての中国人を、広東の国民党政府下に組織しようとしていたころには、後に中国の大地と河川を流血で染めた凄惨な階級闘争は、まだ、時間の胎内にまどろんでいた。朱将軍は、ゲッティンゲンにとどまることは、まったく時間の無駄のように感じた。ドイツ語の力は、会話をはこべるだけになったが、複雑で学問的な講義を完全に理解する力はなかった。どう見ても語学力は貧弱だったし、哲学博士の称号を得ようというような興味もなかった。ヨーロッパにやってきたのは、世界についての知識をひろめ、西洋文化について見聞をふやし、中国の新革命の道を見出すためだった。ベルリンでは、一方で中国の歴史的発展についての自分の研究をつづけながら、中国人学生たちを組織し、孫逸仙政権の基礎をなす新精神について教育することができるだろう。

 

 朱将軍が、遠くすぎさった情景を追いもとめるかのように、私たちの部屋の物寂しい闇の中をじっと見つめたとき、声は、侮蔑や怒りのひびきをともなった。

 

 「ベルリンの金持ちの中国人学生たちは、新しい国民党支部に参加しないどころか、青年党と称するものをつくって、われわれとたたかおうとした。彼らは、ドイツの王党派やその類似の階層のなかで同盟者を求めることまでやり、さらにドイツ警察にたのんで、われわれの組織と私が創刊した中国語の小新聞を弾圧しようとした。

 

 「中国語の印刷機はなかったので、われわれの新聞といっても、謄写版で刷るほかはなかった。私は、営業主任から給仕から荷物運びまで、ひとりであらゆることをやった。記事の責任もとり、謄写版で刷り、発送の宛名を書き、切手をなめ、郵便局に運んで送りだした。私の同志たちや私たちがゆくところには、どこでもドイツの刑事がつけてきた。その刑事らについて面白いことを発見した。――彼らは「植民地係」といわれ、――つまり、かつて中国の青島に住んだことがあり、中国語が話せた。