Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

ベルリンで孫逸仙の追悼会 『偉大なる道』第4巻②ー12

 やがて孫逸仙の、北京でのいたましい死が、1925年3月12日におとずれ、憂愁の気分が世界のいたるところにいる中国革命派の人びとをつつんだ。ベルリンでは、朱と彼の同志たちは、追悼会をひらき、中国語とドイツ語の特集パンフレットを出して、中国の解放にささげられた孫逸仙の40年の悲劇的闘争について物語った。それには、孫逸仙の遺嘱(いしょく)と、ソ連への友好の最後の手紙をのせた。その遺言の中で、彼は残された人びとに勧告して「われわれを平等に取りあつかう世界の諸民族とつながって、共同の闘争をおし進めよ……」といった。また、ソ連への最後の手紙には、つぎのように書いている。

 

 「親愛なる同志諸君。私はいま諸君と別れようとしている。私は、ソ連が、強くて自由な中国に、友と同盟者を見出すことを希望することを、明かにしたい。全世界の非圧迫民族解放の戦いにおいて、この二つの同盟者は、手をたずさえて勝利にむかい行進する。その日は遠くはない」

 

 ただ外国の帝国主義者だけでなく、多くの中国人までが孫逸仙の死をよろこんだのだが、ベルリンの追悼会では多くのものが泣いた、と朱将軍はおもおもしい声でいった。40年にわたって、孫逸仙は中国革命をみちいびいたのだが、いまや国民生活の車輪は、彼の強い腕からはなれて、人びとは、孤児となってさびしくとり残されたように感じた。新旧の指導者たちが、こぞって彼が占めていた地位をめざしたが、ひとりとして彼の偉大さや無私の精神をもたず、若い人びとは、彼がもっていた権威にめぐまれなかった。そして、彼が死ぬやいなや、国民党内にいくつもの徒党が、秘密裏に生まれて、彼が創建した革命の道を歪曲しようとした。ドイツにおいても、彼の敵は勇気をえて、国民党員に新たな攻撃をくわえた。