Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

蒋介石の軍事クーデター 『偉大なる道』第4巻②ー16

 学習は、中国からの報道によってかき乱され、困難を感じさせられた。孫逸仙の遺骸に安らかに眠る時もあたえないほどのうちに、すぐに国民党内の反動派は徒党をむすんで、広東革命政権の基本理念だった三大政策をくつがえそうとした。孫博士の一人息子の孫科も、反動的な西山派の一員になったが、彼らは、三大政策に挑戦し、香港や上海のような帝国主義者の牙城に活動の中心をおいた。そのため、指導者たちは、1926年1月の第二回国民党全国大会によって追放された。しかし、それにもくじけないで潜行運動をつづけた。

 

 また1925年の秋には、孫逸仙の高弟であり友人でもあり、労農提携の主唱者だった廖仲愷(リョウチュウガイ)が広東で暗殺された。下手人は、胡漢民派に金をもらって、暗殺を引きうけたと自白した。

 

 ふたたび、中国革命の上に暗雲がむらがってきた。朱将軍は帰国の準備をはじめた。しかし、国民党の第二回全国大会によって、安堵感をもち、ふたたび勉強にもどった。大会は1926年1月に広東でひらかれ、孫逸仙三民主義と、三大政策を再確認した。また、国民への声明を発表して、過去の革命の闘争の失敗は、知識人階級が労働者や農民と同盟できなかったことが原因といましめた。現今の革命は「農村と工場においてこそ実をむすぶだろう」そして、もし中国人が、外国の帝国主義の役に立ちたいと思うならば、民族統一戦線をやぶるのがいちばんだ、と声明はいった。

 

 この国民への呼びかけが行われて1ヵ月のあと、新たな不吉な事態が発展して、朱将軍は、ふたたび勉学をさまたげられた。広東の黄埔軍官学校長の蒋介石がクーデターをおこし、軍事独裁政権を樹立し、すべての国民党左翼と共産党指導者とソビエト人顧問を市から追放した。蒋はさらに、孫逸仙三民主義もたたきつぶそうとした。しかし、このクーデターは短命だった。というのは、蒋の権力の基礎は、上海にあり、革命の地広東にはなかったからだ、と朱将軍は説明した。