Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

北方の軍閥の勢力範囲 『偉大なる道』第5巻①ー2

 閘北の目的地につくと、朱徳は一軒の家の表口から入って、裏口に通りぬけ、さらにもう一軒、もう一軒、と同じことをくりかえし、最後に、一団の人々が待つ部屋に入る。やがてそこを辞して、共同租界に帰り、あたえられた任務にかかる。むかしの雲南軍時代の友人のあるものは、いまも上海にいた。彼は、その連中をさがしだして軍閥の軍隊についての情報を集めにかかった。あるものは、彼を南京の軍閥孫伝芳の参謀たちに紹介してくれた。彼は何時間も彼らとはなした。その士官たちは、相手は仲間うちの軍人だと思うと、口が軽くなった。イギリスは、孫将軍をたすけ、弾薬や金をあたえて、食うためにだけ戦う傭兵部隊を組織させた。

 

 当時の軍事情勢は、朱徳の説明によれば、およそ次のようなものだった。

 

 北京政府は、いまや満州軍閥張作霖の権力下にあった。張は、かつて匪賊だったが、日本帝国主義の援助によって、郷土満州の主人になっていた。

 

 北方の山東省は、「やはり日本の走狗」の張宗昌将軍の支配下にあったが、彼は、その巨体と蛮行と、富と妾と、白系ロシア人部隊をもつことで有名だった。張は、寝床で妾と寝たままで、また膝に妾をのせたままで、外国の外交官と面接した。「反徒殺し」の張は、さまざまな国からあつめた50人の妾を自慢にしていた。じっさい彼は、あるとき、北京の巨大な洋式ホテルの屋上庭園に、一列縦隊になった妾どもをひきつれて入ってきたことがあった。

 

 西北の山西省は、閻錫山将軍によって、中世の小王国さながらに支配されていたが、彼は、いつでも、北京をおさえる強い軍閥と同盟することにしていた。自分が十分強くなったと思ったら、閻はみずからを首都の主人になろうとするだろう。

 

 イギリスの権益の勢力範囲である揚子江流域は、ともにイギリスに支持される二人の軍閥が支配していた。下流の、上海と南京をふくみ、江岸から南方にかけての地方は、孫伝芳将軍の支配下にあり、西方の四川にかけての地方は、呉佩孚将軍の縄張りであり、呉は、北京政府首脳の地位をうしなったあとも、新支配者たちとの同盟をつづけていたのである。呉の子分の唐生智将軍は、南の湖南省の主になっていたが、国民党と協定を結びつつあった。呉は、すべての軍閥の中の強者だった。彼の本拠は、武漢――漢口、武昌、漢陽――の三市だった。したがって彼は、漢陽にある中国最大の造兵廠を手中におさめていた。