Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

英国による万県事件への怒り 『偉大なる道』第5巻①ー7 

 「ちょうどこの危機の時に」と朱将軍はつづけて、「一隻のイギリス商船が揚子江をさかのぼってきて、万県の前面に碇泊したので、慣例によって、楊森将軍の税官吏は、しらべるために向かった。その税関の小艇が近づくと、銃火があられのようにふりそそいできた。小艇は沈没して、全員が死んだ」

 

 楊森は怒って、軍隊に、その商船を捕獲することを命じ、かなりの戦いで双方に相当な戦死者を出したのちに、命令は遂行された。この事件がおこってからのちは、朱徳と楊森は腕を組んで立つことになり、朱は楊に勧告し、楊はそれをききいれた。

 

 事件解決のための交渉がはじまり、進行していたときに、二隻のイギリス砲艦が揚子江をさかのぼってきて、力によって船を奪回しようした。抵抗にあうと、二隻は砲を万県に向けて、2時間のあいだ休止なく打ちこんだ。揚森の江岸砲台も発砲したが、2時間後、5千人の中国人が死に、万県は猛火に包まれていた。イギリス軍はその船を奪い返し、中国軍を江に追い落としてから、引き上げた。

 

 「万県事件」の報せは全中国に燃えうつった。国民党政府は、イギリスの新たな暴行に対して激烈な弾劾声明を発表し、あらゆる種類の民間組織もそれにならい、共産党はイギリスの犯罪行為をならべ立てた宣言を出した。

 

 朱将軍は、長年にわたって彼が収集保存していた歴史的文献のとじ込みのなかから、共産党の宣言を印刷した、しわだらけの一枚の紙を取り出したが、それには次のような言葉があった。

 

 「英国は、以前から多くの挑発行為をあえてしてきた。上海、漢口および広東の殺戮のみではなく、北伐の当初において、英軍隊は広西省梧州に上陸し、対英不買運動中の中国人を逮捕し……北伐軍が武漢に到達するや、その砲艦はわが軍を砲撃することによって、あからさまに呉佩孚を援助し……9月4日、その砲艦は広東前面に入りきって、ピケの中国人を捕らえ、私有船舶を接収し、暴力をもってその商貨を市中に送りこみ……万県事件は、英国の中国干渉の4回目の行為である……