Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

国民党中央委員会vs蒋介石 『偉大なる道』第5巻①ー13

 とにかく、1926年の初冬に武漢に到着した朱は、課せられた特殊任務をはたさなければならなかった。四川に送られたのは、楊森将軍の軍を中立化させるか、民族闘争に引きいれるか、というためだった。彼はその使命をはたして、楊森が国民革命に忠誠を誓う使節としてきていた。だから彼は、蒋介石に面接したいと思ったが、総司令官蒋は、「自分の戦略」のことで頭がいっぱいで、そういう問題には何らの関心をもっていない、と知らされた。朱は、旧友で北伐軍の政治指導員になっていた鄧演達を訪ね、鄧から、蒋は、大衆運動の弾圧を叫んでいるばかりでなく、国民党の中央委員会の戦略を無視して、自己中心の戦略を強行しようとしている、ということをきいた。

 

 国民党中央委員会は、国民政府の主要な指導者たちとともに、北伐軍は、北京の軍閥政権を打破して、その県をとりあげるまで、北方への進軍を続行するべきだ、と主張していた。それをなしとげたならば、外国帝国主義の牙城上海も、ほとんど自動的に掌中におさめることができるだろう。しかし、蒋は、まず上海を占領して、それから北伐を続行すればいい、と主張した。

 

 蒋のその戦略は「謀略」でしかなかった、と朱将軍はいった。上海は、むかし彼が足固めした地であり、帝国主義者の堅城であり、彼はかつてここで株式市場の投機者になり、地下の青幇の組織にも加盟していた。その青幇の親分どもは、アヘンと人肉の売買をし、あらゆる種類の荒仕事に没頭する博徒として、莫大な富をつみかさねていた。一方、上海の買弁階級は、外国資本と国内資本とのあいだの仲介業者であった。こういう人間は、しばしば地主や官僚を兼ねながら、外国帝国主義とのあいだに複雑な関係をむすんでいた。そして、そういう関係によって、豪商、工場主、銀行家などになり、または外国商社の手先となって、外国人経営の工場に、年期でしばった労働者を狩りあつめた。これらの買弁とその「ご主人さま」である外国人、買弁と外国帝国主義者のための首斬り役人としての青幇――こういう社会勢力に、蒋介石は大いにたよることができた。