Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

蒋介石による上海虐殺 『偉大なる道』第5巻②ー10

 蒋介石は、上海の労働者を弾圧するには、自分の私軍の兵士たちでは、頼りにならないことはわかっていた。だからこそ、秘密結社の青幇に頼らなければならなかったのだが、その青幇は、この仕事をするのに十分な兵器弾薬をもっていなかった。ジョン・B・パウェル氏がいうのだが、青幇の首領たちはフランス租界の行政庁(工部局)といっしょになって、共同租界のアメリカ代表のスターリング・フェセンデン氏から積極的な援助を受けた。そして青幇は、5千丁のライフル銃と弾薬を与えられ、また反軍閥・反帝の本部がある閘北の中国人街の労働者に攻撃をかけるために、共同租界を通過する権利も得た。

 

 青幇が、まず虐殺をやって火をつけ、それから、蒋の軍の、気も進まない兵士たちに、労働者が暴動をはじめて、虐殺をしているから、攻撃して法と秩序を回復せよ、と告げた。

 

 それで、4月12日の真夜中に、何千もの暴力団は、自由に共同租界を通過して閘北に押し入ることができた。共同租界と閘北とのあいだには大きな柵がつくられていたが、その門扉は音もなく開き、虐殺は開始された。最初の攻撃は、上海労働組合の本部にくわえられ、そこに寝ていた主な指導者たちは、みな殺された、それから、虐殺は閘北のあらゆる区域にひろがり、一方で、外国警官と探偵は、外国人租界で人狩りをはじめ、つかまったものをすべて暴力団の手にゆだねた。

 

 夜の闇のうちに、蒋介石の軍に、「労働者の蜂起、暴動、殺人を、力をもって制圧し、法と秩序を回復せよ」との行動命令が下った。3日間がたってみると、約5千の、労働者、国民党左翼党員、共産党員、無党派の知識人などが殺されていた。朱徳の旧友孫炳文も、殺されていた。ゼネストの組織者、周恩来はとらえられ、広西軍の一部隊に送られたが、その隊は彼が逃げるのを見のがした。