Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

蒋介石、南京に軍事政権組織 『偉大なる道』第5巻②ー11

 虐殺が終わると、蒋介石は、青幇の親分を、新しくつくられた労働組合の書記長に任命した。この男が、後には蒋介石の軍の政治主任になった。青幇の暴力団員どもは、何大隊かに組み分けられて、揚子江下流地方の、村や町や都市に派遣され、そこで彼らの虐殺行為を重ねていった。

 

 漢口の国民党中央委員会は、蒋を党から除名し、指揮権をうばったが、彼は平気で、自分を首席とする自らの国民党と軍事政権を、南京に組織した。彼は、融資も受けた。しかし、彼に対して、帝国主義列強が、さらに融資し、承認し、彼の政権の各部門を監督するために顧問を送ってきたのは、2年後だった。外国は、彼を金で釣って、きりきりはたらかせ、その上で彼が「誠意」をしめす――つまり反軍閥・反帝の革命を完全にたたきつぶすまでは、彼を中国の主導者としては認めなかった。


 いまや、蒋は、新旧の軍閥のあいだで人気が高く、彼らは続々と国民党に加盟したり、その政府に入ったりした。漢口の国民党左翼の多くのものまで、そっと南京の方に歩み寄っていき、その中のあるものは、しばらく上海にとどまって、最後の決断をする前に、熟慮の時をもったりした。山西省の中世的な軍閥閻錫山(えんしゃくざん)は「北方革命軍」の総司令官に任じられ、後に蒋介石政権の国防部長になった。1927年の末までに、蒋介石は閻錫山だけでなく、北京の軍閥張作霖とも同盟を結んで、「共産党」――それは彼らにとっては、大革命によって解放された民衆の大きな社会的勢力、ということを意味していたが、それを根こそぎにせよ、と公言した。北京の張作霖は、この新同盟の祝福のために、何百の北京の進歩主義者をとらえて殺し、その中には、女学生も入っていたが、彼女らは、手首までの袖でなく肘までの袖の服を着ていたために、わいせつであるという理由からであった。


 朱徳は、上海の殺戮の報告に驚愕して、考える力を失うほどであった。彼がいうには、劉湘が四川で殺戮をおこなったときには、おどろきもしなかったが、――上海といえば、反軍閥・反帝の運動の中心地ではないか。――だが、上海は同時に、中国の買弁資本、つまり、心身ともに外国金融資本にしばられた資本の中心地でもあったというわけである。「それからの十年を通じて」と朱将軍はいった。「中国のブルジョア階級は、帝国主義に圧迫されているくせに、その外国帝国主義および中国の封建的地主階級と、反動的な同盟をむすんだ。こうして、ブルジョア階級は、蒋介石を旗頭にして、革命を裏切り、そして国民の敵になった」