Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

国民党左翼の汪精衛の変節 『偉大なる道』第5巻②ー12

 上海虐殺の直後に、共産党は第5回大会を漢口で開いた。朱徳は出席しなかった。主要な国民党員は出席して、会場で発言したが、その中には、最近ヨーロッパから帰ったきた漢口政府首席、汪精衞もいた。しかし、汪は漢口にあらわれる前に、上海で蒋介石と秘密の談合をし、それから漢口につくと、国民党左翼の中の彼の一派を秘密裏に召集し、彼と蒋介石との協定を承認させた。共産党書記長陳独秀は、大衆運動に関しては自分の過去の過ちを認めたが、なおも、毛沢東の農村革命の理論や労働者農民の武装の問題を討議することはさまたげ続けた。しかも共産党は、――朱将軍の説明では、労働者農民の武装を遠慮すれば、決定的分裂がさけられるだろうと考えながら、国民党左翼の指導者のいうことにしたがっていた。

 

 1927年の5月から7月にわたって、反動攻勢のために、全国的に血が流れた。湖南省で反抗してたちあがった数千の農民、南方広東での数百の労働者は、豚のようにたたき殺された。

 

 当時も朱徳が軍官学校長をしていた、江西省雲南軍は、労働者農民の指導者を殺し、彼らとともに戦った共産主義者を追放した。

 

 反革命が国中をどんどん押しまくっていたとき、汪精衞が首脳となった漢口国民政府は、圧力をかけてくる蒋の軍と、喧嘩の真似事をして見せていた。一方「クリスチャン将軍」馮玉祥は、二つの力の均衡をとりながら、蒋と秘密の打ち合わせをした上で、漢口に向かって、共産党を弾圧し、ロシア人顧問を帰国させよ、と勧告した。なお、国民党左翼の指導者たちは、その気があるならば、「休養のため」外遊してもよかろう、ともいった。汪精衛は、内心はこういう勧告に飛びつきたかったが、彼には、おれは蒋介石のような成り上がり者ではなく、孫逸仙の後継者だ、という誇りがあった。

 

 汪とその一党は、蒋を相手にして権力と地位の一幕を打ちはじめた。おのれの私軍と見なしていた「鉄軍」を江にそって江西北部までくだらせた。湖南の元軍閥、唐生智の軍の一部は、やはり下流に移動させられたが、残りのものは、武漢にとどまって、労、農、学生の組織の本部を占領した。

 

 このようにはるか以前に起こった悲劇を想起したとき、朱将軍の目は、私の部屋の奥の闇黒の一点を見つめ、声は低くするどくなった。