Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

故孫逸仙夫人宋慶齡の声明と亡命 『偉大なる道』第5巻②ー13

 「国民党左翼政治家と軍人は、上海の虐殺とともに開始された反動攻勢に対して、労働者農民の支持をもとめて戦おうとしないどころか、大衆運動を弾圧しはじめた。いままで漢口政権の骨肉になったものは人民の運動にほかならなかったのに、すでに7月の中ごろには、軍事政権化していた。大衆の支持をうしなった汪精衛と左翼の分派は、漢口で、空のひょうたんに入れた豆のように、うるさくさわぎ出した。一方では、『鉄軍』で蒋をおどかす振りをしながら、その中でもっともうるさい、有力な政治家どもは、そろそろ南京上海の袖を引きはじめていた。財政部長の宋子文は漢口を去った。孔祥煕博士と孫科は、すでに上海にいた。国民党の、左右の両翼の指導者とともに、故孫逸仙の衣によって身をつつんでいたが、真に孫の意思を明らかにしたものは、未亡人宋慶齡だけであり、彼女は両翼をともに否定していた。彼女は声明を発して、故孫逸仙は、ロシアがまだ帝政下にあったときに、すでに農村革命を唱道していたということをしめし、いま労働者農民の運動を『新しく奇怪な産物』であるとして非難しつつあるものを弾劾した。また彼女は、1927年の農民は、孫逸仙が革命を起こしたころよりもさらに悲惨であり、大衆運動の弾圧は、国民への裏切だ、といった。しかし彼女は、すでに革命の影響下にある数多くの民衆は、勝利の日まで闘争をつづけることを確信する、といった。

 

 「孫夫人は、彼女の亡夫の主義への忠誠をすてなかった、数人の国民党指導者とともに、ヨーロッパに亡命した。その中には、外交部長陳友仁もいたが、彼は汪精衛の一派に属していた。数ヵ月後には汪自身も外遊したが、彼と陳、および彼らの取巻きは、しばらくして帰国し、彼ら一党の権力のためにたたかった。汪は、結局蒋と合作したが、蒋との権力闘争はつづけた。そのころには、政治的には、両者のあいだに甲乙はなかった。だが、蒋の方が軍事力を持っていたので、優勢だった。