Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

南昌蜂起のあと井岡山にはいった毛沢東 『偉大なる道』第6巻③ー6

 異様なかっこうをしたいくつかの部隊が、歓喜の叫びをあげながら、近づいてきた。彼らは、十分な装備を身につけた約5百人の部隊で、南昌蜂起ののち、秋収蜂起を援助するために、毛沢東が指導して、湖南省へ進出した、漢口守備隊の一部であることがわかった。この部隊は、チャン・ツェ・チンとウ・チュン・ハオが指揮していたが、ふたりとも黄埔軍官学校出身だった。

 

 朱将軍は、これらの人たちから聞いて、現在、毛沢東が、ここから北方の江西省西部の湖南省境にほど近い、井岡山として知られている、戦略的山岳地帯にいることを知った。むかしから抑圧のはげしい時代には、同じような山塞が、どこにでもあったように、井岡山も、極端な貧弱と無知におしひしがれたこの数十年のあいだ、匪賊のかくれ家になっていた。大革命のあいだ、農民運動は、その社会的目標を大いに吹き込んだので、この地方の農民運動の指導者、王佐と袁文才は、農民を指導して、土地分配のための激しい闘争をおこなった。しかし、その後の反革命の嵐でこっぴどくたたかれたので、彼らは、毛沢東が部隊と農民たちを引き連れて、この地区に入ってくるまでのあいだ、昔ながらの匪賊の習慣にもどっていた。毛沢東は、王佐と袁文才らと同盟を結び、井岡山を、農村革命のための革命的軍事基地にしてしまった。

 

 毛沢東のもとへ代表を急派したのち、朱徳は、農民蜂起計画を立てるため桂陽会議に集まってくる各地の共産党代表に会うために、いまや総数約2千名にのぼる、彼の小さな工農革命軍をひきいて、山岳地方をぬけて西方にくだっていった。