Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

蒋介石軍の許克祥将軍による反撃 『偉大なる道』第6巻④ー6

 朱徳軍の宜章占領後、湖南省南部と東部一帯に、革命の炎が燃え上がり、農民たちは土地の分配をはじめた。彼らは、つぎからつぎへと、朱徳の司令部をおとずれ、地主との闘争を援助してくれともとめた。朱徳は、幹部をえらんで農民につけて返すか、援兵として小部隊を送った。ほんの短い間に、彼の部隊の大部分はふたたび、広い地域に分散してしまった。地主たちは、生き延びるために、国民党軍か地方軍閥が勢力をたもっている大都市へ逃げ出していった。敵軍が南方から迫ってきたとき、朱徳は古参兵二個大隊を急いで派遣して、農民の組織と武装にあたらせた。軍閥唐生智が北方郴県に侵入してきたときも、朱徳は、さらに別の部隊を送った。とうとう、宜章を守備するものは、ほんのひとにぎりの労働者自衛隊だけになってしまった。

 

 占領後、3週間目に、蒋介石軍の二個師団が宜章に向かって進軍してきた。司令官は許克祥将軍だったが、彼は1927年の5月、湖南省で、数千の農民をみな殺しにし、「百姓殺し」として有名になっていた。全市が恐慌状態に陥り、みんな付近の村々に逃げ出した。朱徳は、彼の部隊を呼びかえし、宜章ソビエトと人民組織の指導者たちを連れて湖南と広東の省境の山岳地帯へ撤退した。この地方にはいった第1日目に、革命軍は2千人の民団を武装解除し、その武器を農民に引きわたした。

 

 「匪賊どもめ!」とののしりながら、「百姓殺し」は、彼らをみな殺しにしようとして、二個連隊を派遣した。しかし、彼の部下で結果を報告しにかえってきたものは、一人もなかった。そこで、許は、みずから五個連隊をひきいて、攻めてきた。このとき、革命軍がとった戦闘の仕方こそ、その後ずっと現在にいたるまで、朱徳軍の作戦の基本となった。朱将軍は、それについて次のようにかたった――

 

 「われわれは、人民に基礎をおいている。われわれは、自分で戦場をえらび、山を背にして布陣し、われわれの望むところへ敵軍をひきいれ、それから、敵の輸送隊を寸断し、敵の両側面を襲撃し、こうして、敵を包囲し、せん滅した。