Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

革命軍、耒陽ソビエトを建設 『偉大なる道』第6巻④ー10

 郴(ちん)県にのこっていた敵の五個中隊は、朱徳軍接近の噂を聞くと、たちまち、逃げ出してしまったので、朱徳は、一発もうたずに県城を占領した。郴県ソビエト湖南省につくられた2番目のソビエトだった。これにつづいて、県内のすべての村々に村ソビエトがつくられた。その後、南湖南のほかの県や地区も相次いで、革命の側に投じた。当時、毛沢東は、井岡山をなだれ降りて、江西省一円を掃討してまわっていたし、茶陵にあった漢口守備兵大隊は、朱徳の言葉でいえば「湖南省南部と東部全域に、人民政権が設立される」まではと、四方にうって出ていた。

 

 郴県の北方に、耒陽(らいよう)県という大きな県があり、その県城も耒陽という名である。そこは、「農民とインテリが、戦闘的で英雄主義ということで有名であり、地主は、残虐なことで知られていた」ここを占領するために、朱徳は、みずから数個部隊をひきいて進撃した。県城の南門から、数里のところで、彼は、およそ千人の武装した農民に出あった。彼らの報告によると、地主どもは、みすから、千人近くの装備のよい民団を指揮して、南門一帯に防御工事をほどこしていた。しかし、彼らは、ほかはどこも防御は手薄で、北門は、いつも開けはなたれていて、6人足らずで守っているだけであった。

 

 朱徳は、今回も、農民が進言した計画にしたがった。その夜、彼は山岳地帯をとおって耒陽の東側へ行軍した。眠りに落ちた村々を通過すると、男たちはみな寝床からとびだして、持っている武器を手に取り、革命軍といっしょに行軍していった。あくる朝、地主の指揮官と民団兵たちが、夜間勤務をしていたものと交代するために、南門の防御線にでかけていったときには、革命軍は、すでに町のなかに進入し、町を通り抜けて地主と民団兵を背後から襲撃した。餓え苦しむ人間のように、農民たちは、いっせいに民団へおそいいかかり、武器をうばいとった。農民の手中におちたなん人かの地主は、その場でなぐり殺された。

 

 2週間のあいだ、農民たちは、耒陽の解放と耒陽ソビエトの建設を祝った。数千の人々が、きちんと列をつくって、町へ流れこんできた。見物をし、民衆大会に出席したのち、それぞれの村へ列をつくって帰っていった。どの列も、それぞれ農民自衛隊の偉大な旗――中央に白い鋤をうかせた大きな赤旗――をかかげていた。この旗は、かつて、孫逸仙が広東で農民運動をはじめたとき、農民組合とその自衛隊が使ったものである。