Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

勇気ある農民たちの物語 『偉大なる道』第6巻④ー12

 長いあいだ沈黙がつづいた。それからようやく、その思い出をふり切って、朱将軍は耒陽の話にもどり、勇気ある農民のたくさんの物語をしてくれた。農民たちは、これまでの数々の勝利ですっかり自信をつけてしまって、自分たちだけで、国民党の正規軍にぶつかっていった。そうして再三、大虐殺をこうむった。たとえば、1928年の4月、広西軍二個師団が、戦略上の要地であり、工業都市である衞陽の町を占領した。広西軍の将軍たちは、まず湖南省を征服したうえで、蒋介石と全中国の支配権をあらそおうと企てていた。このとき、大劉と小劉として知られていた、2人の百姓の兄弟は、広西軍を追い出し、衞陽の町をとりかえそうと決意した。

 

 この兄弟は、正規の革命軍がくるのを待たずに、衞陽に向かって進軍を開始した。ゆく先々で農民を集めていったので、彼らの勢力は、とうとう数千人にのぼる、希望にみちた戦士たちの集まりになった。衞陽の前方で、広西軍二個師団と衝突した。戦雲がおさまったとき、戦場には数千の農民の死体が散らばっていた。大劉と小劉の死体もその中にまじっていた。

 

 ちょうどこのころ、水口山のアンチモン鉱山の鉱夫8百人が、朱徳の軍に加わってきた。もとは鍛冶屋で、それから鉱夫になっていた宋・チャオ・センという男は、もっとも初期からの共産党員のひとりで、労働運動の組織者だった。40歳になる宋は、組合と研究会を組織するために、アンチモン鉱夫を指導して何度も流血の闘争をおこなった。反革命によって労働者の組織が地下に追いこまれたのちも、組合はまったく無傷でのこっていた。棍棒と鉄の棒をもって、鉱山会社の武装した守衛とたたかい、小銃30丁を分捕ったあとで、朱徳の軍に参加するために、農村をとおって行進してきた。

 

 耒陽の司令部から呼び出されて、朱徳は、鉱夫たちに会うために通りへ出ていった。ところが多くの鉱夫たちは、まだ11歳か12歳の子どもにすぎなかった。彼らは、小さいので革命軍に採用されないのではないかと心配して、背を高く見せようと一生けんめい背伸びしていた。この子ども達はいずれも、もう3,4年も鉱夫をしており、しかも、おとなの仲間とまったく同じ時間働いていた。これまでに革命軍にしたがっていた大勢のほかの貧しい子どもたちと同じように、彼らも、出来る時にはいつでも正規の教育が受けられるように、ひとまず政治部に編入され、司令部付きの看護兵や伝令をつとめることになった。これらの「小鬼」たち――これらの子どもたちはこういう愛称で呼ばれていた――は、革命軍のなかで大きくなり、全生涯を完全に革命に捧げた幹部になっていった。

 

 朱徳が、これらの鉱夫の話をしていた1937年には、まだ彼らの多くは、革命軍に残っていて、将来、軍司令官や政治指導者になるために一生懸命働いていた。しかし、彼らの指導者だった宋・チァオ・センは、すでに戦死していた。