Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

井岡山へ撤退命令 『偉大なる道』第6巻④ー13

 1928年4月、広西軍五個師団が、湖南の革命軍にたいして戦端を開いてきたときには、朱徳軍は約1万の兵力になっていた。しかしそのうち制服を着ていたのは、たった2,3百人で、ほかの大部分は、耒陽の女たちが、大々的に「靴を作る運動」を起こして、綱とわらじでできた靴を補給してくれるまでは、裸足だった。強力な装備をもった広西軍や、湖南の軍閥唐生智軍とのたびたびの戦闘で、朱徳と彼の同志たちは、これ以上戦闘を続けると、全滅させられることが明らかになった。広西軍とのある戦闘では、朱将軍は、旧友范石生将軍の部隊の援助を受けたのだが、結局、大損害をこうむってしまった。范将軍は、広東省へ追いかえされてしまった。

 

 そこで、朱徳軍と毛沢東軍との共産党軍事委員会代表の合同会議が開かれた。その決定にもとづいて、朱徳軍の主力は、湖南―江西の省境に近いレイ県に集結したうえで、戦略的山岳基地、井岡山へ撤退することになった。彼らは、この井岡山を基地として、江西省西部と湖南省東部の全域を農村革命の基地にするという計画をたてた。朱徳軍の幹部の多くは、便衣隊をつれて湖南省にのこり、活発に農民運動をつづけさせることになった。

 

 朱徳が集結命令を出すと、たちまち、きわめて迅速に実行にうつされた。朱将軍もいったように、この期間に朱徳軍が、改善し発展させた、もっともすぐれた部門のひとつは、通信であった。通信組織は、網の目のように、湖南省南部と江西省西部の全体をおおい、さらに地下組織を通じて「白」区にまで広がっていた。全部、農民の人力でおこなわれた。ある農民は、それほど努力もしないで、一日に百里、すなわち30マイル(48キロ)も歩くことができた。普通のやり方は、一人の農民が、10ないし20里、すなわち3ないし6マイル走って、次の農民に手紙や、報告や、あるいは命令をわたす。その農民はさらに次の連絡場所まで走っていく、というやり方であった。舟を使えるときは、もっと早く連絡できた。敵軍から馬を捕獲してからは、「早馬速達便」を開設した伝令も出てきた。