Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

農民の指導者、王佐と袁文才 『偉大なる道』第6巻⑤ー3

 井岡山というのは、まわりが150マイル(240キロ)もある山岳地帯の総称である。いたるところに、松、もみ、竹の大きな森林があり、大きな花をつけたつる草が木々にからみついている。そして、春の花の香りがそよ風にのって、流れてくる。美しい景色にあたり一面おおわれた地方であったが、一年の大半は霧につつまれていた。霧がはれたときには、朱徳は、塔のようにつきでた火山の頂上をじっと見上げたものだった。

 

 この未開で、あまり生産物にめぐまれない山地の真ん中に、木々におおわれた傾斜地にかこまれて、広くてまるい谷がよこたわっている。むかし、「匪賊になった農民たち」――その子孫が現在も1500人のこっていた――が、ここに5つの村をつくった。そのひとつひとつが井戸をとりまいて立っているので、この地方では、この谷を「大小五井」とよんでいる。朱徳の部隊はこの谷の中やまわりに、兵舎や、訓練学校、病院、兵器廠、その他の施設をたてた。こうして、すでに毛沢東が、この谷や山地の周辺の農民のあいだではじめていた、土地革命のための訓練基地と司令部にふさわしい環境ができあがっていった。毛沢東は、また、この5つの村で農民の指導者王佐と袁文才の賛同と援助を受けて、農民を組織し、訓練をはじめていた。

 

 山のなかの農民たちは、猫のひたいほどの野菜畑を耕し、竹の子や茶、薬草を売って生活していた。しかし、これだけではとうてい暮らしていけないので、いつも彼らは、結局最後には遠方の町を襲撃して、掠奪していた。彼らは、いつも、この地方の地主だけは手をつけずにのこしておいた。


 「中国では、匪賊と地主は、いつでも、手をにぎっていた」と朱将軍はかたった。「地主制度は、貧乏と無知をそだてた。しばしば農民は毎年、すくなくとも一年の一時期は、匪賊にならざるをえなかった。井岡山地方と同じように、匪賊化した農民が指導者のもとに組織化された場合には、地主はその指導者と協定をむすぶ。われわれが、この山にはいる前には、王佐と袁文才は、わずかばかりの貢ぎ物を地主から受けとって、そのかわりに彼らの生活を平穏にしておいた。地主どもは、『われわれをおそわず、ほかの地主をおそってくれ』といっていた。われわれが、土地革命をはじめ、地主の土地と財産を没収し、それを農民に分配するようになってからすっかり変わってしまった。地主どもは、われわれをやっつけるために、国民党軍を呼びよせたからである。