Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

紅軍第四軍の採用したゲリラ戦 『偉大なる道』第6巻⑤ー10

 「私も、『耳の不自由な老チュウ』の戦術から、たくさんのことを学び取った」と朱徳は笑いながら話した。「国民党軍はみんな、日本軍が常用する戦術をつかってたたかい、いつでも前面と左右両翼に防衛隊を配置して、一縦隊で前進してきた。やつらは、このほかはなんにも知らなかった。しかし、われわれの方は、迅速に行動できる、いくつかの小戦闘部隊に分散し、敵の背後と、両側面へ迂回して、急襲し、敵をばらばらに寸断した。こういう戦術には秘密などなんにもない。だれでもこの戦術を学ぶことができるし、事実、のちには軍閥どもも、われわれに対してこの戦術を使おうとしたものだ。だが、結局やつらは失敗した。そのわけは、こういうゲリラ戦には、戦場の地勢についての完全な知識が必要であるだけでなく、なによりも一般人民の支持が必要だからだ。人民は、国民党軍閥を憎んでいて、動静をさぐり、小部隊や落伍兵を待ち伏せして、殺し、輸送部隊を捕虜にしたりした。その結果、敵軍は、遠くからやつらの動きを見張っている、はだしの百姓を、一人でもみつけると、たちまち恐怖におそわれて、前進を中止するという時代がきたわけだった」

 

 紅軍第四軍は、1928年の6月の第1週、井岡山周辺の6つの県で、地主と軍閥にたいして攻勢にでた。たった1週間で、紅軍は、3つの区から敵軍を一掃し、敵の軍需品を全部鹵獲(ろかく)して、1200人を捕虜にした。区役場の所在地には、人民代表会議が樹立され、各村々にも下部の人民代表会議がつくられた。土地は農民に分配され、農民は武装し、訓練された。婦人や青年、労働者の同盟が建設された。婦人は男に従属するという昔からのしきたりが、ここではじめてぶち破られた。

 

 革命を弾圧するために江西省中央部から派遣されてきた敵の諸部隊は追いかえされ、粉砕され、大きな被害をこうむった。身体の丈夫な農民が戦っただけでなく、子どもや老人まで、できる限りの働きをした。