Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

共産党や土地革命にのこる封建主義の残滓 『偉大なる道』第6巻⑥ー11

 遠くすぎ去った時代を回想しながら、朱徳将軍は、反革命勢力と帝国主義諸勢力とのあいだに、衝突や矛盾があったと同時に、革命勢力のあいだにも、かんたんに解決できない問題がひそんでいたことをみとめた。たとえば、――と、彼はかたった――朱徳と彼の同志たちが、東固についてみると、それまでこの拠点を指導してきた共産党指導者たちのあいだに、非常に奇妙な現象を見いだした。これらの指導者たちは、地主の息子か地主そのものでさえあった。しかし、彼らの大部分は、若くて教育を受けている連中で、大革命で重要な役割を演じ、そのころに共産党員になった。数人は黄埔軍官学校の卒業生で、この有名な学校の教師をしたことのあるものもひとりいた。全員が、南昌蜂起に参加し、その後、彼らの郷里である東固地方に帰り、土地革命をはじめていた。

 

 これらの「インテリ」――朱将軍は彼らをこう呼んだ――は、革命のためにはあらゆることをしたが、ただひとつ、彼ら自身の土地を小作人に分配することだけはしなかった。

 

 ここに、すなわち、共産党の内部にも、すでにはじまっている土地革命のなかにも、思想と行動の両面において、封建主義の残滓がのこっていることが明かになった。毛沢東朱徳や、彼らの幕僚たちにとっては、問題はいっそう複雑だった。なぜならば、ちょうど、強力な敵の諸部隊が紅軍めがけて四方から集中してきているときだったので、彼らは、東固出身の党指導者たちが、生命をかけて誓った共産主義の綱領と政策をもっと忠実に実践するように、あえて強く要求しなかった。もし、このようなときにこの点を強く押したならば、かならず、重大な内部闘争にひきずりこまれたにちがいない。したがって、紅軍としては、東固の大衆のあいだに革命闘争が湧きあがるのを待つのみ、というわけだった。

 

 このような闘争は、約1年後に、土地革命が江西全省に野火のようにもえ広がったときに、おこった。紅軍第二十軍団は東固出身者からなっていて、指揮官も政治指導者も、東固の指導者か、そうでなければ、彼らの追随者であった。この第二十軍団は、ついに紅軍に対して反乱をおこした。第二十軍団の指揮官たちは、彼ら自身の農民部隊をおそれて、共産党と紅軍そのものをあえて非難する勇気は持っていなかった。そのかわり、毛沢東朱徳をにせの共産党員だと攻撃して、彼らだけの小さな共産党を結成した。

 

 このような地方指導者の中で、忠誠をまもって、紅軍にとどまったのはたった一人だった。この男は、その後、第十五軍団の参謀長になった。朱徳が筆者に話しをしてくれた1937年にも、まだ紅軍にいて、抗大、すなわち延安の抗日軍政大学の指導者になっていた。しかし、その他のものたちは、当時もはや個々人の仕事ではなくなっていた土地革命の流れをくいとめることに、いうまでもなく失敗したのであった。