Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

汀洲のミシン工場と紅軍の制服 『偉大なる道』第7巻①ー6

 2つ目として、朱徳は小さい日本製の兵器工場のことも思い出した。この工場は、クオ将軍の弾薬の大部分を補給していた。この作戦で鹵獲(ろかく)した兵器のうち、2千丁の小銃と「数十丁の機関銃」は、すべて新品で、これまた日本製であった。

 

 しかし、なによりも、近代的なミシン――日本製――をそなえた工場があった。この工場は、2つの兵器工場と同じく、クオ将軍が所有していて、彼の部隊の軍服を製造していた。これらの工場の労働者は、これまで1日に20時間も働いていた。しかし、いまや彼らは、自分たちの労働組合を組織し、1日2交替の8時間労働制を確立し、紅軍の軍服を製造しはじめた。

 

 朱将軍が、これらのミシンについて話すときは、本当に声までやさしくうるんだ。ミシンは、「われわれにとっては、大へんなもの」だった、といった。「というのは、それまで、われわれが着ていた衣類はぜんぶ、手で仕立てていたからだ」

 

 「しかし、われわれは、いまや、はじめて紅軍の制服をもつようになった」と彼は、古い記憶をたどりながら、ちょっともの悲しげに微笑していった。「色は灰色がかった青で、ズボンには、すね当てがついていて、帽子には、赤い星章がついていた。外国の軍服に比べれば、もちろん、貧弱なものだが、われわれにとっては、実に立派なものに見えた。わが軍のなかには、小さなグループをつくって、工場を見に行ったものがいる。彼らは、仕立て職人がミシンを使う様子をつっ立ったまま、だまってじっとみつめたものだ。ずっと後になって、われわれは、汀州を撤退しなければならなくなったが、兵器工場と制服工場の労働者たちは、われわれについてきた。彼らは、自分たちで機械を運搬し、われわれがゆく先々で、働きつづけた。ミシンは、1934年から1935年の長征のときにも、いっしょに持っていった。この行軍のあいだも、職人たちは、たびたび野外で仕事をしたものだ。彼らは、今もわが軍といっしょにおり、当時の機械をそのままもっている」

 

 朱将軍にいわれて、私は、1937年1月に延安で建設された、この制服工場を見にいった。日本製のマークをつけたミシンが、まだそこにならんでいた。そして、今では中年になった、仕立て職人たちは、やせて、色の黒い、まじめな人びとで、ちょっと訪問者の方をながめただけで、すぐに仕事に没頭した。